詩的な身体

魔法のフレーズをとなえるだけで姿勢がよくなるすごい本」を読んでみた。

そして感じたのは、

 

身体は「詩」である

 

ということだった。

この本はアレクサンダー・テクニークと呼ばれる身体操作法に基づく姿勢改善法ということである。

アレクサンダー・テクニークはよく舞台芸術などで用いられるが、身体を物理的な「モノ」として捉えるだけでなく身体と心の「繋がり方」に焦点を置いている点が特長のようである。

つまり「自己」の「身体の認識」を改善することによって、痛みや不具合などを改善しようという試みともいえる。

これを一種のイメージトレーニングや自己催眠のように説明している場合もあるが、これはおそらく正しい認識ではない。

イメージングによって身体の状態を自分の都合に良いように変化させようとするのではなく、イメージングを補佐的に用いながら「身体に対する認識の間違いを訂正する」ということを主眼にしているからである。

アレクサンダー・テクニークはヨーロッパで生まれた技法だがこの考え方には「心身不二」や「唯識」のような、東洋哲学的な指向性が伺えるような気がする。

ヨーガの基本的な考え方ともよく似ている。

 

効くのだなあ。

ある種のフレーズを心の中で唱えることによって心身の状態が劇的に変化することは以前から気がついていた。

自律訓練法のように強制的で強姦的な方法とはまったくちがい、もっとマイルドかつ「即座に」効くのである。

自律訓練法は確かに効果が高いのだが、いかんせん文字通り「訓練」であって、このメソッドを自在に扱えるようになるにはかなりの期間が必要である。

また長年訓練をしてもその効果が発現するのに数分程度の時間が必要だし、誤った方法で訓練を続けると副作用が出るという点で危険もある。

かなり強い集中力が必要なので、人を選ぶところもある。

 

パニック障害真っ盛りのころ、外出先などで唐突に発作が出て極度の緊張状態になったとき、以下のような言葉を心の中で唱えると状態がかなり改善することがよくあった。

 

ほっとして

安心しよう

 

バカみたいに直截的な言葉だが、非常に不思議なことで、これを唱えるだけでもほんとうに心身がすこし「ほっとして」「安心する」のである。

とくに意識したわけでもないのに、勝手に肩や腕のちからが抜けていく。

これは本などで学習したのではなく、たまたま発見したものである。

自律訓練法では「腕が重い」「腕が温かい」というような言葉を強いイメージをもって長時間連呼し、イメージしつづけねばならないのに、こちらは「たった1度」で事足りることも多い。

パニック発作が出なくなってからも、調子が悪いときや緊張を強いられる場面では今でもよく使っている。

ほっとして、安心しよう。

ほんとうに不思議だが、このシンプルな「言葉」だけで、全身の縮こまった血管や細胞がゆるみひろがる感覚を覚えるのである。

 

この本にも書かれているが、肩や首が凝り固まっているときには、

 

アルプスの雪どけ

 

という言葉も効く。

どういうわけかはわからないのだが「雪どけ」だけでは効かないし、「富士山の雪どけ」でも効かないのである。

おそらくは「アルプス」という言葉には岩がゴツゴツして巨大で堅いイメージがあるからなのかもしれない。

いっぽう富士山にはすこしやさしく、洗練された感じがあり、末広がりの柔和な曲線は「肩こり」とはイメージが相容れないのかもしれない。

富士山という言葉は、案外座禅のときに効く。

座禅を組んで姿勢を正すときに、

 

屹立したる富士の山容

 

という言葉を思い出すと、ビシっと姿勢が決まりやすくなるのである。

 

このように、完全とまでは言えないが言葉には身体を変化させるはたらきがある。

言葉によってこころが一瞬で変化し、こころの変化が即座に身体に反映されるのである。

一般的な「イメージング」と決定的に異なるのは、訓練も知識も努力もコツも一切不要なところである。

だからこの方法に必要なのは知識や経験、努力や集中の才能ではない。

「言葉の選び方と組み合わせ方」に尽きる。

これを誤ると、似たような意味の言葉であってもなんにも効かなくなってしまう。

 

そのへんがまるで「詩」だなあと思うわけである。

読む側に十分な知識や経験、努力や天賦の才がなければこころに響かないようなものは「詩」とはいえない。

それはただの文章である。

なんの予備知識もなく、才能も学位もないのに一読するだけでなぜか「いいな」と感じられる、言葉の組み合わせ。

読者に必要な能力は「日本語がわかる」というだけで良い。

それはすなわち「詩」ではないか。

詩によって、状態が変化する。

ということはつまり、身体もまた「詩的」なのではないか、と考えてしまうわけである。

 

「才能がなくても効く」と書いたが、しかしこのような感覚はもしかしたら「ゴリゴリの理系脳」では感じられないことなのかもしれない。

物事を論理と整合性だけで理解し、再現性に執着する脳には「なんかいいな」の「なんか」さえをも分解し、あまつさえ公式化しようとするはたらきがある。

詩には確かに論理はあるが、論理で詩を分解してしまうと、そこには言葉という部品が列挙されるだけで効力は完全に喪失する。

詩の本質は詩そのものには存在しないので、詩は心身を変化させる一種の「触媒」ともいえる。

詩は分解してはならず、詩はその総体によってこそ触媒たりうる。

また詩は「じっくり観察し、考える」だけでも触媒機能を喪失してしまうこともあり、すこしシュレディンガーの猫に似ている。

 

ということに「ピンとくる」ひとは、ゴリゴリの理系のひとには少ない。

そして医学はゴリゴリの理系のひとが支配しているので、結果「詩的な身体」を理解してくれる医療人も少ないのである。

案外このへんが現代医療の限界、とくに精神医療の限界を規定しているような気もする。

論理と知識だけで解決できるのなら、ぼくのパニック障害や自律神経失調症も病院の先生がサッサと治してくれたはずである。

それができなかったのは「身体という詩」を「分解して」考えてしまったからではないのだろうか。

詩は分解してしまったら理解できなくなるように、身体も分解してしまったら理解できなくなるのかもしれない。

ひとはそれ一個全体で、ひとである。

 

そこにあるものを、目が見ない。

そこにあるものを、耳が聴かない。

そこにあるものを、からだが知らない。

ただそれだけのことだった。

– 長田弘「誰も気づかなかった」

 

 

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