ぼくの仕事部屋には神棚が祀ってあります。
理由は神社の氏子だからとか、何らかの宗教団体に加入しているからとかではありません。
10年勤めた会社を辞めて独立するときに、知人の社長さんから「自分で会社をやるんだったら神棚は祀っておいたほうがいいよ」というアドバイスをもらったからでした。
その社長さんもべつに宗教とは全く関係のない方でした。
独立してから10年以上経ったいま、ようやく意味がわかってきたような気がします。
仕事場に神棚を祀るのは、縁起がいいとか商売繁盛の祈願のためだけではないのです。
「敬意を忘れない」
このことこそが、最も重大な意味だったんだろうなと思います。
個人事業主にせよ、社長にせよ、じぶんで何らかの事業のオーナーになるときに最も重要なことは「敬意」だったのでした。
若い頃は、独立に必要なのは「能力」「頭の良さ」だと思いがちですが、じつはそうではなかった。
てんで無能なひとでも長期間事業を継続している社長さんはたくさんいますし、逆にとても有能なのに短期間で会社を潰してしまう社長さんもいます。
むしろ、有能な社長さんこそ事業が長続きしないという現象さえあります。
理由はとても単純で「傲慢」と「ひとりよがり」なのでした。
人間はじぶんがトップに立ってしまうと、どうしても傲慢になってしまいがちなのです。
だれも文句を言わないし、邪魔もしないから、じぶんの考えを正しいと感じどんどん主観優先になっていって、客観的な視点を失うようになっていってしまう。
するといつのまにか「好み」を優先して強引で無謀な道を歩んでしまうようになる。
客観性を身につけるためには、様々な人に相談をしたり意見を聞くという方法論がよく言われます。
でもこれは、じつはあまり意味がないのです。
事業について人に相談したとき、その相手の意見を聞くのは「わたし」であって、その意見を判断するのも「わたし」です。
だから、「わたし」が「主観の牢獄」から脱出できていない限りは、どれだけたくさんの、また有能な人の意見を聞いたって、たいして意味がない。
結局は、自分自身の枠を超えた判断などできないのです。
ではどうすれば良いのか。
「性格を変える」しか、じつは方法がないのでした。
人に意見を聞いたり、あるいは人から意見をされたとき、「その人に敬意を持ち、しっかり耳を傾ける」ということができていなければ、意見を聞いたことにはならない。
そもそも社長になろうとか、じぶんで事業を起こそうとかいう人は、根本的に我が強かったり自信家だったりするものです。
我が強いまま、自信が強いままだと、なにをどうしたって「我が強くて自信が強いわたし」の枠を飛び出すことができない。
結果、いろいろと人の意見を聞き、四の五の論理的に考えたたにも関わらず、馬の耳に念仏で、結局は主観の枠から脱出できずじまいで計算を誤り猪突猛進してしまう。
そんな例はたくさん見てきましたし、ぼくじしんも、そうでした。
「敬意を持つ」というのは、言葉だけでいえば、かんたんです。
「感謝を忘れるな」も、まったく同じです。
しかしながら、敬意を持とうと思ってちゃんと敬意が持てるひとには、そもそも敬意を持ちなさいというアドバイスは不要です。
また、敬意を持とうと思っても敬意を持てないひとには、敬意を持ちなさいというアドバイスは、まったく意味がない。
感謝についても同じで、感謝を忘れるなと言われて、はいわかりましたと本当に感謝ができるような人には、感謝を忘れるなというアドバイスはそもそも不要。
いっぽう、感謝を忘れるなと言われても、感謝の気持ちが全然持てないひとには、感謝を忘れるなというアドバイスは何ら意味がない。
つまり「敬意を持つ」とか「感謝を忘れるな」とかいうのは、誰にとっても「寝言」です。
一種の行動療法が必要なのです。
敬意を持つためには、敬意を持つ人が行うようなことを繰り返し行うのが効果的。
感謝の心をもつためには、感謝の心をもつ人が行うようなことを繰り返し行うのが効果的なのでした。
だから、神棚なのです。
もちろん、仏壇でも良いでしょう。
まず「人間以上の存在」を想定し、それに対する敬意と感謝の念を持つ訓練を繰り返すことにより、いずれ敬意と感謝が「クセ」になり、人に対してもその念を持てるようになっていく。
そうすると、人の意見にはじめて「意味」が発生しはじめて、アドバイスがちゃんとアドバイスとなり、人間関係も良好になっていく。
「神様なんかいるわねえぜ馬鹿野郎」
とか思っている時点で、その人は素直さを失っているだけでなく、論理的に破綻している。
素直さを失っているがゆえに、さまざまな人の意見やアドバイスを「わたしの主観」で捻じ曲げてしまい、なにも耳に入らなくなってくる。
また「神様なんかいない」ということを証明するのは論理学的には「悪魔の証明」と言われていて、これは実行不可能です。
「ある」ことの証明は可能でも、「ない」ことの証明は不可能なのです。
なのに「ない」と信じ切ってしまうということは、論理を跳躍し、客観性を失って主観的な世界に埋没しはじめていることを示しています。
そもそもの話、神棚の水と榊の水を毎朝変えることすら面倒と感じたり、忘れてしまうような人は、結局なにもできないと考えたほうが良いです。
べつに5km離れた川に行って毎朝水を汲んでこいと言っているわけではなく、水道の水で良いのです。
そんな安易なことすらもできないのなら、もし何か事業の決めたことがあっても絶対に守れません。
自らに課したルーチンも、きっと三日坊主で終わってしまうでしょう。
これは理屈ではなく、実体験です。
神棚の世話を面倒くさがったり、完全に忘れてしまうときは、仕事も雑になっているし、人に対してもキツくあたったり、計画性を失っていたりしています。
その状態は、いずれ事業の成績にはねかえってくるのでした。
神棚に「鏡」があるのも、ぼくには意味深に感じます。
一般的には神鏡は太陽を表していて、太陽崇拝の名残だと言われています。
しかしぼくは、神鏡はそのまま「自らを見直せ」というメッセージを発しているように思えるのです。
また、鏡を見て曇っているようなら、それだけ神棚の世話をないがしろにしている証拠。
そういう細かいところに気が行き届いていないという状態こそが、現在の心の状態をあらわしている。
そんなふうに、感じたりします。
「神仏は敬えど頼らず」
そんなことを言う人に限って、じつは「敬ってさえいない」ことが多いものです。
敬うとは、どういうことなのでしょうか。
神様に頼らない生き方があっても、ぼくは結構だと思います。
でも「敬う」こころを失ってしまったら、事業云々は関係なく、人生がとてもつまらないものになってしまうような気がします。