豆と禅

好きな話があって、そのむかし、道元というお坊さんのところに重い病で死にかけている子どもを抱えた母親がやってきた。

「どうかお坊様のちからで、この子を癒やしてください」

母親は懇願し、そこで道元は

「よし、ではこの村で死人が一人も出たことがない家から豆を一粒もらってきなさい」

と言った。

母親は我が子を抱えたまますべての家を訪問したのち、鬼の形相になって道元のもとに戻ってきた。

「このクソ坊主! 死人が出たことがない家なんか、あるわけがないだろう!」

そこで道元は言った。

「な」

 

母親ははっと何事かに気がついて、その場で崩れ落ちたそうです。

その後残念ながらその子は亡くなって、道元も涙したという。

 

結局この話に救いはなかったわけで、決して素敵なお話ではないです。

でもぼくは、とても良い話だと思う。

世の中にはいろんな宗教があって、そのほとんどが「救い」を売り物にしていて、祈れば助かるという話がほんとうに多い。

しかし「ほんとうの救いとはなにか」を考えたら、必ずしも願いが叶うことが救いではないことは論理的に明白です。

どうしようもない苦しみにあったとき、それを「受け入れる」度量を持つことこそが、真の救いの道にほかならない。

「死人が出たことがない家なんか、あるわけがないだろう!」

まさにそのとおりで、だからその母親の息子だって例外ではない。

しかしこの話は、人の生死に関して無関心や無感動になれと言っているわけではなく、「その後道元は涙した」というところが、この話のもっとも重要なところだと思うのです。

人が死ぬのは仕方がないから、あきらめて無関心でいようと言っているのではない。

人が死ぬのは仕方がないから、その悲しみを真正面から受けとめよ、と言っているように思うのです。

苦しみに対して無関心や無感動、麻痺を推奨するのなら、それは狂人の道を推奨しているのとおなじです。

そうではなく、人としてまったく正常な反応を完全肯定し、その反応さえをもまるごと受け入れよと言っているところに、この話の妙味があると思う。

 

ではどうすればよいのか、という話になったとき、断然当たり前の話になってくる。

病気には必ず原因があり、防ぐことができるもの、悪化を食い止めることができるものもたいへん多い。

そのために必要なことは、「あたりまえのことを、ちゃんとする」しかないのでした。

そこで禅が推奨するのは、

・掃除

・整理整頓

・常に姿勢を正しくする

・飽食を避ける

・強すぎる欲を持たないようにするために、欲を煽るものから遠ざかる

・ときに姿勢を正して座して瞑目し、呼吸を整える

などなど。

病の多くが不潔から起きているし、現代は清潔だと言うが完全にウソで、気密性の高い家になったからこそカビなどの雑菌が増え炎症系の病も増えている。

雑多なモノや情報に囲まれているせいで脳に負荷が絶え間なくかかりつづけて、精神を病んだりする場合もある。

よけいな欲が多すぎると、欲が満たされない確率が増えて欲求不満となり、大量のストレスを自ら製造する。

栄養過多のせいで血液が濁り、高血圧や成人病を誘発する。栄養過多はまた、欲もブーストする。

ココロがつねに踊っているせいで神経が疲弊し、よけいなこころの病を誘発する。

姿勢が悪いと呼吸が浅くなり、換気効率が下がっていらぬ病をもたらすこともある。

そのあたりをまさに「整理整頓し」、あたりまえのことを、あたりまえにすることをしていけば、想像以上に多くの病を遠ざけることが可能になる。

 

ネットでいろんな情報を探すのも良いが、玄関のクツは必ず揃えているか。

脱いだ服はきちんと畳んでいるか。

玄関はいつもピカピカにしているか。

タンスの中や、引き出し、押し入れのなかはゴチャゴチャしていないか。

パソコンのデスクトップが、アイコンやフォルダだらけになっていないか。

出したものはもとの場所に戻しているか。

毎日と言わずとも、2日に1回は掃除をしているか。

トイレや風呂場、台所、洗面台、洗濯機など、水回りは常に清潔にしているか。

その窓は、いつ拭いたのか。

その床は、いつ拭いたのか。

窓のレールは清潔にしているか。

毎日歯を丁寧に磨いているか。

風呂に入って清潔にしているか。

早寝早起きをしているか。

腹いっぱいになるまで食ったりしていないか。

たまに胃腸を休めているか。

過剰に酒を飲んだり、ヘビースモーキングをしたりしていないか。

からだをちゃんと動かしているか。

音楽や映像、情報を遮断し、たまにしずかなところで脳を休めることをしているか。

猫背の姿勢になっていないか。

ご近所さんに、笑顔で挨拶しているか。

 

柔道でさえ、受け身もろくすっぽできない人間は、何も教えてもらえない。

ましてやおのれの「人生」において、あたりまえのことを、あたりまえにできていないで、なにを得られるというのだろう。

あたりまえのことを、あたりまえにしていても、ひとは病むときは病むし、老いるし、死ぬときは死ぬ。

しかし、あたりまえのことを、あたりまえにしてたのなら、その確率と猶予時間に、どれほどの差が出るだろう。

これは人生訓の話ではなく、数学的確率の話である。

確率の高いことをしておいて、不幸になったと騒ぐために、わたしは生まれてきたのか。

 

話は変わりますが、この世には、奇跡や魔力(悪魔の意味ではなく、Magicの意味)はある。断言します。

しかし、それらは「あたりまえのことを、あたりまえにできている」人にだけに与えられるそうです。

つまり、論理的な帰結として、あたりまえのことを、あたりまえにできていない人には、奇跡も魔法も魔力も神力も、絶対に与えられない。

あたりまえですけど、あたりまえのことを、あたりまえにすることさえできないひとに、なんの修行ができるのかという話ですね。

小宇宙である自分自身さえコントロールできていないのに、どうしてこの大宇宙、天地自然をコントロールできると思うのか。

小宇宙である自分自身をコントロールできるようになれば、大宇宙もコントロールが可能になるそうです。

しかしおそろしいことで、魔力を求める人に限って、ほんとうはあたりまえのことが、なんにもできていないのに、できていると思いこんでいる人が8割以上なのでした。

5メートル泳げないひとが、なぜ100メートルを泳ごうとするのか、謎なんですけどね、人間とはそうしたもののようです。

仏法とは眼横鼻直なり、魔法とは自然の働きそのものなり。

書いてあるそのまんまなのに、人はそれをしようともしないで、難しく考え、難しいことから先に手をつけるようになった。

だから人間は、とつぜん魔力を失ったんだそうです。

  • ぽぽんた より:

    おはようございます。

    道元さんのお話 初めて聞きました。
    元ネタ?なのかな こちらが有名かも
    これを 思い出しました。
    https://true-buddhism.com/founder/kisagotami/

    よい 一日 を *

    • TERA より:

      ありがとうございます。
      これは映画「禅-zen-」に出てくる話で、原作にはないんですけどそういう説話があるので入れたそうです。
      キサーゴータミーの話が元ネタでしょうね〜あれは豆じゃなくて、芥子の種ですけど。

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