気は、ちぢむ。

パニックであるとか自律神経失調症であるとか、そーゆーアレについて、東洋医学的見地でもって「気」というものに問題があるという説があります。
いわく、神経的に不安定な人は、
 
・気の「めぐりがわるい」。
・気が「上にあがっている」。
・気が「足りない」。
 
などということが、よく言われます。
冷え性なんかも、末端まで「気」が巡っていかないからそうなるんだ、と言われます。
ヨガ教室や気功教室にマジで通ったことがあって、そこで聞いたところによると「気」というのはどうやら一種の概念で、生命や精神のエネルギーを指すもののようです。
「気」は湯気とか煙とか炎とかそういった不定形なもので、したがっていろいろな形態をとるのが特徴なんだそうです。
これが機嫌よく、滞りなく身体の中を巡っていれば、健康になれるのだとか。
 
本やネットにあたったり、ヨガ教室や気功教室に行くと、この「気」については、だいたい「めぐり」問題、「上か下か」問題について終始することが多いです。
これにともなって、呼吸法であるとか体操法であるとかがよくフォーカスされます。
 
さて、ぼくは貴公子ではあるが気功師ではないので(いかんな。最近ダジャレが多いな。トシかな)確実にはわからないのですが、いがいと「めぐり」だけの問題ではないような気がするのです。
 
というのも、くそまじめに長年「めぐり」を良くしようと頑張っても、ちーとも良くならんからです。
ああ、やはりぼくの努力が足りないのだ、あるいはセンスがないのだ、もしくはバカだからやりかた間違ってるんだ、と自分を責め立てたこともありましたが、でもふつうに考えたら、3年頑張って全く効果が出なかったら、それは「お門違いの努力をしている」ことのほうが多いと思います。
そこで、思ったのです。
「めぐり」「上下」が根本的な問題では、ないのではなかろーか。
いわゆる「気」が、もしほんとうに湯気や炎のように不定形であるのなら、一般に指摘される「めぐる」とか「滞る」とか「集まる」「出る」「出ない」「多い」「少ない」だけではなく、「ちぢむ」ことだって、ありうるのではないか。
「滞気」「鬱気」のほかに、「縮気」ということも、あるのではないか?
 
たしかに気が滞っている、鬱積している、そういう感覚はある。
あるが、その「状態」は、もしかするとただの「結果」に過ぎないのではないか?
気が滞ったり、鬱積してしまったりしてしまう、そのこと自体に「原因」があるのではないか?
それがこの「縮気」なのではないか、と思い当たったのであります。
気が、きゅっと「縮んじゃった」のではないか?
男性ならわかってもらえると思うけど、たとえばスカイツリーのてっぺんに登って下を見たら、きんたまが「きゅっ」とちぢむ。
怖いと、ちぢむのです。
あと寒くても、ちぢむ。
べつに怖いことはなんにもなくても、ものすごく寒いと、高いところに登ったときとまったくおなじように、きんたまが「きゅっ」ととぢむ。
「怖い」や「いやだ」ということ、あるいは「冷え」があると、肉体は縮もうとするようなのです。
この縮もうとするのモーメントのようなものが「気」なのでは、と思うのです。
怖いおじさんがいるとか、刃物を向けられたとか、そーゆー条件的恐怖ではなく、パニック障害の人が恐れるのは「死そのもの」ともいえます。
だからパニック障害は、もはや「根源的な恐怖を恐れている」と言っても過言ではありません。
怖いと、ちぢむ。
ぼくなんかは「気が停滞している」というよりは、恐怖で「気が縮れている」というほうが、正確な気がするのです。
縮こまった結果、それが形態として、停滞していたり、少なく見えたり、回っていないように見えるのではないか、と思うのです。
あれだけ運動をし、ヨガも毎日欠かさず3年間続けても改善しなかったのは、「縮れていた」からかもしれない。
この「縮れ」を取り去っていないから、いくら回そうとしても回らなかったのではないか。
さてでは、どうすれば「気の縮み」はとれるのか。
思うに、これはたぶんそう難しいことではなく、単純に「気は伸びていく」と思えば良いでのはないでしょうか。
神経の調子が悪い人は、多くの場合、頭部や首、胸、背中あたりに「気」が縮れて固まっているように思います。
そのこんがらがった「気の毛糸玉」から、するすると、あたかも赤い毛糸が自動的に伸びていくように、手足の指先まで「気」が「伸びていく」と「思う」。
案外たったこれだけのことで、気分がすこし楽になることも多いです。
めぐりが悪いのでもなく、停滞しているのでもなく、少ないのでもなく、「縮んでいる」。
だから伸ばすだけだ、そう思うだけでも、なんだか気持ちはすこし、楽になります。
「気を下げる」。
これがうまくいかないのも、「縮み」がとれていないからかもしれないな、と思ったりします。
ぎゅうぎゅうにもつれて、こんがらがって、引きこもってしまっているから、下に降りようにも、降りていかないのです。
機序としては、
1.気の「縮み」をゆるめる。
2.それからおもむろに「降ろす」。
ということになるのかな、と思います。
縮みをとらないまま、先に強引におろしてしまうから、こんどはあたまが「虚」になって、ふらつきやめまい、息苦しさが出てしまうのかもしれないな、とも思います。
気が短い。
なぜ、短いのか?
それは「気」が縮んでしまっているから、短くなってしまっているんだと思います。
「身(み)=中心」に「ちかい」から「みぢかい」。
気が長い。
それは、「気」がゆったりと、自然に伸びているから、長く見えるのだと思います。
「気」はまるで、かげろうのようなものだといいます。
ならばこそ「思う」だけでも、気は伸びるはず。
むしろ「運動をせなばならない」「ヨガをせねばならない」「呼吸法をしなくてはならない」「あれはいけない、これはいけない」そういうふうな萎縮した考えこそが、かえって「気を縮める」ような気もします。
あたまやくびのなかできゅっとちぢこまってしまっていた「気」が、するすると、するすると、まるで元気な蔓草のように、自動で指先まで伸びていく。
そう思うと、なぜか首まで伸びるのでした。

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