オタクはなぜ嫌われるのか

昔ほどではないにせよ、いまだに「オタク」というひとたちは嫌われる傾向にあるようですね。

その理由としては、清潔感がないとか、変態的であるとか、コミュニケーション能力が未熟だとか、身勝手であるとか、いろいろあるようですが、強引に一言でまとめると、

TPOをわきまえない

というところに、結果的には行き着くようです。

今風にいえば、空気を読めない、的な。

正確には当然、オタクの人全員がTPOをわきまえないわけはなくて、「TPOを弁えない人が、オタクという一般的類型に多く見られる傾向がある」でしょうけどね。

だから「オタクがきらいだ」と言っている人の多くは、オタクが嫌いなのではなく、「ある特定の個人が嫌い」なのだと思います。

しかしそれが無意識に一般化(心理学:Organization)してしまい、そのうち「オタクという類型分類に属する人が全員が嫌い」ということになるのだと思います。

これは明らかに「行き過ぎた一般化(Over-Organization)」なので、一種の「認知の歪み」とも言えるかもしれません。

つまり、オタクを異様に毛嫌いする人というのは、ある種の神経症に属している可能性があります。

「昔オタク的な人に非常に迷惑をかけられた」という経験があって、それが一般化し、最終的に「オタクは全員嫌い」になってしまった。

もしそうならば、これは「昔エレベーターに閉じ込められたことがあって、それ以降閉所恐怖症になってしまった」というのと、構図的にはまったく同じです。

過去の不愉快な経験が、その後の価値観に強く影響し、行動まで抑制するという動きは、神経症誕生のメカニズムの典型でもあります。

 

よって「オタクはなぜ嫌われるのか」というありがちな命題については、本来2方向の究明の道筋があります。

A オタク自身の問題を扱う道

B オタクを嫌う人の問題を扱う道

「A」についてはもう散々言い尽くされている感があるので、ぼくは「B」について考えてみました。

つまり、

オタクよりも、オタクを毛嫌いする人のほうに問題がある

という点について。

 

個人的には中学生のころから、ぼくの周囲には「オタク」的なひとがけっこういました。

あれから30年経って、彼らはどうなったか。

ほとんどはそういったオタク的世界から、脱却していき、ふつうに社会人になっています。

しかし少数ではありますが、いまだにその道を走り続けている人もいます。

そういった人たちは、どうなったか?

なんと「その道で食っていくようになった」のでした。

 

ある友人は絵が上手いので、ふと思い出して気軽にイラストを頼んだら「ごめん! 大人の事情で、一般の仕事はもう受けられないんだ」と返ってきました。

つまり、彼は絵のプロになったのです。

アニメーターになったひと、ゲームクリエイターになったひと、イラストレーターになった人。

彼らはオタクを卒業せず、そのまま突っ走っていったのでした。

そして皮肉なもので、彼らはみな「好きな仕事でそこそこ儲けていて、人生が楽しそう」だけれど、オタクを脱却したひとたちは「好きでもない仕事で薄給をもらって愚痴が多い」人が多いのでした。

 

根本的にはまず、以下のような構図が存在するのだと思います。

人間には「世界を作っていく」側のひとと、「作られた世界を消費する」側の、二種類の人がいる

という構図が。

「世界を作っていく」ひとというのは、おおむねみんな、オタク的傾向があります。

・TOPをあまり弁えない。
・自己中心的であり、自己の価値観にゆるぎがない。
・好きなことには超人的な集中力とエネルギーを発揮することがある。
・見た目やオシャレにはほとんど気を使わない。
・好きなことを否定されると烈火のごとく怒ることがある。
・こだわりがつよく、ときに攻撃的になる。

このあたりの特徴を見て、わりとすんなり思い浮かぶのがスティーブ・ジョブズですよね。

世界を変えてしまったような人というのは、多かれ少なかれ、上記のようなオタク的気質を持ち合わせていることが多いようです。

まあ、あたりまえだともいえますが。

TOPを弁え、ひとの顔色を伺い、好きなことよりも「すべきこと」を優先し、ステレオタイプな人生を求め、安心安全安定を好み、なまぬるい平和を好むようなひとが、高度なイノベーションを起こせるわけがありませんからね。

スティーブ・ジョブズが紳士的な常識人だったら、たぶんiPhoneなんか生まれてないでしょう。

スティーブ・ジョブズも、スティーブ・ウォズニアックも、超弩級のコンピュータオタクだったそうです。

 

オタクを嫌う人というのはたぶん、オタクが持つ膨大なエネルギーに、耐えられないのだと思います。

「反りが合わない」のでしょうね。

「常識の範囲内だから安心できる人」と、「そもそも興味が常識外にある」人とが、合うはずもありません。

宿命的に、相互に相反し、反発し合う運命にあるのかもしれませんね。

 

オタクというのは、ひとことでいえば「変人」なのだと思います。

そして変人こそが、世の中を変えたり、新しい価値観を生み出したりします。

文化と文明の進化は、いつの時代も、変人によって達成される。

だからオタクを毛嫌いするひとというのは一種の「保守派」なのであって、究極的には世界の進化を妨げる側、ブレーキ側の人間なのだろうと思います。

だから「オタクがなぜ嫌われるのか」という記事を探したりして、嫌われない努力をしようとしたりするオタクは、もうオタクではないともいえますね。

興味が「常識内」に向きつつある、ただ「好きなだけ」のひと。

その趣味を突き詰めることよりも、カノジョを作ることのほうが重要になってきた。

そういうひとがオタクを脱出し、一般的な社会人になっていくのは、そう時間のかかることでもないのでしょう。

 

個人的には、オタクの人は好きだし、正直羨ましいとさえ思います。

対象が何であれ、それだけ大量の情熱をつぎ込めるなんて、生まれてきた甲斐があるじゃないですか。

人の顔色を伺い、常識という白線を跨がないように、いつも注意しながら生きてくなんて、人生が窮屈すぎる。

しかもその白線のほとんどは、だれかが勝手に引いたもので、絶対的なものではないのですよね。

常識なんて、ただの一時的な便宜的定義に過ぎません。

わかっていても、でもぼくは、その白線をどうしてもまたげない。

勇気がないのですよ。あたまもかたい。

ぼくはオタクはきらいじゃないけど、オタクになる根性がありません。

そもそも、そんなに没頭できる何かがない。

 

オタクはもう絶滅した、という説もあります。

だからこそ、本物のオタクのひとには、頑張ってほしいなあと思うのです。

オタクが悪いのではなく、オタクを悪いと言う人のほうが、本質的には神経症的要求を持った発達異常者なのかもしれませんからね。

十把一絡げに物事を捉え、一部のサンプルが属する類型全体にその定義を敷衍させてしまうというのは知能が低い証拠でもあるし、認知が歪んでいるということでもあります。

そんな「小物」に負けないで、世界がびっくりするような、ものすごい何かを作ってほしいと、マジで願います。

 

もっとオタクを育ててほしいな、とも思ったことがあります。

でもこれは「ちがうな」と、即座に気が付きました。

オタクにやさしい世界、オタクの価値観を否定しない、こころの広い世界。

そんなの、ダメだっ!

誰に嫌われようが、誰に否定されようが、ぜってえにやめねえ

そんなエネルギーこそが、本物のオタクを生むのですもの。

オタクを甘やかすことが、オタクを生むのではありませんね。

理解者は、ごく親しい数人だけのほうがいい。

 

だから、結局は、こうなるのです。

オタクを毛嫌いする人こそが、本物のオタクをつくる

オタク嫌いな人が、ふるいになって、本物が残るのですよ。

どのような攻撃にも誹謗中傷にも負けない、本物の大物が、残る。

オタク嫌いな人が消えてしまったら、同時に純度の高いオタクも減ってしまうのかもしれませんね。

オタクが絶滅したというのは、じつは最近「オタクにやさしい」世界になってしまったからなのかも。

市民権を得た結果、絶滅してしまう。

菌と、おなじですね。

悪玉菌が全部消えたら、善玉菌もいなくなるのだそうです。

人を骨抜きにするなんて、かんたんだ。

やさしくしてしまえばいいんだ。

 

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