人生はゲームだった。

じつはぼくは、スポーツも含めて、ゲームというのがだいたい嫌いです。

とくに嫌いなのが、RPG。

 

なぜかというと、簡単にいえば「だから、何なん?」だからです。

世界を救うため、魔法のクリスタルを探しに、冒険するのだ!

は?

なにゆってんの?

なんの妄想? 病気?

 

徹夜でゲームする人とかの気持ちが、いっさいわからないのです。

だって、そんなことしたって、一銭のトクにもならんのですよ?

そこで勝ち得た技術なんか、現実世界ではまったく一切、役にたたん。

だってぜんぶ「にせもの」なのだもの。

そういう意味では、まだスポーツのほうがマシです。

現実的な体力はつくし、現物の人間と直接対峙することで、駆け引きや心理戦などの能力も向上します。

しかしスポーツにしたところで、結局試合とは一種の仮想空間なわけで、アレは現実の世界ではない。

だったらもう、現実でそのまま直接努力したほうが、手っ取り早いじゃねーか。

 

そう、つまりぼくがこだわっていたのは「現実か仮想か」「本物か偽物か」ということろだったのです。

現実こそ正しく、仮想と妄想は悪である。

本物こそ重要で、偽物は不要なものである。

というような倫理観が、なぜかぼくのココロの奥底にあります。

だから映画なんかでも、ファンタジーものよりはドキュメンタリーのほうが好き。

テレビはドラマなんかより、旅番組のほうが好きなのです。

アカデミー賞だかなんだか知らないが、ようするに作り話じゃねーかー!

おまえの妄想じゃねーかー!

 

しかし最近、以下のことを知って、すこし気が変わったのです。

この現実を現実だと証明することは、論理的に不可能である」。

いまぼくがこうして生きていることは、現実だとも、夢だとも、どっちらとも論理的に証明することはできないのです。

つまりこの世は「よくわからないもの」。

この事実は、まさに仏教的です。

仏教では、この世界をまぼろしだと定義しています。

ものごとの本質は「空(くう)」である。

そこにあるともいえないし、ないともいえない。

 

と、いうことはですね。

「ゲームなんて、仮想と空想の産物なのだから、くだらないものだ」という定義は、論理的にバクハツしてしまうのです。

仮想と現実には明確な差異など、本質的にはとくにはないからです。

「仮想だからつまらない」のでは、ない。

それが仮想であろうが、現実であろうが、その価値は結局「面白いかどうか」ということだけにかかっている。

 

人生は、ゲームだ。

そう思えば、トラブルや病気に際しても、楽しく生きていくことができるようになるかもしれないな、と思ったのです。

ゲームというのは、本質的に「面倒なもの」です。

一般的にはRPGものには悪役がいて、それを倒していくわけですが、その敵がヤスヤスと倒せるようなゲームは「クソゲー」と言われます。

こりゃかなわないなあ、勝つの到底無理だなあ、みんなどうやって勝ったの?

ぐらい強力な敵がいるからこそ、ゲームは楽しくなります。

倒したときの達成感は、ヒトシオです。

現実でも、そうです。

なんでもかんでも思い通り、らくちんらくちん、完全なる平和、そんな人生は、逆に地獄です。

くだらん、つまらん。

ちょっとどうしようもないほど困ったり、迷ったり、悩んだりするからこそ、人生というゲームは楽しくなります。

苦痛を乗り越えたときに、えもいえぬ喜びも感じます。

 

現実とゲームの共通項はいろいろとありますが、最大のポイントは

拒否の感情があるとすべてがクソになる

ということです。

こんなことして、なんになるの。

だから、なんなんだ。

一銭のトクにも、なりやしない。

時間と電気代のムダだ。

めんどくせ。

そういう感情をメインに持ち出したら、現実においても、仮想においても、一瞬で「ゲームオーバー」です。

 

「この世界は、クソゲーだ」

という人もいます。

でも、どうだろう。

ほんとうにそんなに、なんの努力も不必要で、らくちんで、楽勝でハナクソほじったまま生きられるほどすてきな世の中だろうか。

逆に、論理的にかなわないほど常識はずれに強大な敵が、そうそうたくさん、いるだろうか。

修練してもまったく上達しないようなことが、この世にあるだろうか。

バグだらけで世界全体が停止してしまうようなことが、あるだろうか。

 

市販のRPGと「この世界のゲーム」の最大の違いは「じぶんでつくるものだ」ということかもしれません。

この世界をクソゲーだと言う人は、きっとこの世界を「誰かから与えられたもの」だと勘違いしているのだと思います。

敵をつくるのも、敵を味方につけるのも、ほんとうは、じぶんしだい。

テーマを決めるのも、じぶんしだい。

ラスボスを決めるのも、探すのも、逃げるのも、自分自身です。

クソゲーという言葉は、それを既成品だと思うから、出てくるのでしょう。

クソゲーだと思うなら、ラスボスを変えてもいい。

そんな自由も、この世界のゲームには存在しています。

目標を、どこに据えるか。

そのためのストーリーを、どこまで綿密に練ることができるか。

トラブルやイレギュラーに、どのように備えるか。

そしてなにより、どれだけこのゲームを、楽しめるか。

どれだけたのしく、戦えるか。

それもぜんぶぜんぶ、じぶんにかかっている。

 

この世界に、一大事は存在しない。

有名な禅のことばです。

仏教は難解だ……そう思うけど、「人生はゲームなのだ」という観念があれば、このことばもわりとスッと入ってきます。

たしかに、一大事なんか存在しないわな。

だって遊びなんだものなあ。

仮想なんだものなあ。

ていうか「現実」が、そもそもあやふやなのだもの。

現実は、それを現実と定義する人によって、はじめて存在ができます。

つまり現実とは、究極的に主観的なもので、空想とそんなに変わりはないのですものね。

 

ホモ・ルーデンス。

ルーデンスとは、ラテン語で「遊ぶ」という意味です。

ホイジンガいわく、人間とは「遊ぶいきもの」なのだそうです。

ていうかむしろ、遊びがなければ、もう人間ではない。

「空想なんてくだらない」などという人は、「まだまだ人間未満である」ということかもしれませんね。

だからでしょうか。

仕事や勉強、産業などの「ねばならぬ」に忠実で、とても現実的で、遊びの要素がまったくない人は、ぜんぜん魅力的じゃない。つまらないし、くだらない。

現実の役に立ちそうもないことを、どれだけたくさん知っていて、やっているか。

ほんとうは、それこそが人間の「真価」なのかもしれませんね。

 

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