「べき」の呪縛と怒り

結局昨晩は、ほとんど眠れませんでした。

夜の9時にはベッドに入り、10時には眠ってしまう普段の生活からすると、たいへんめずらしいです。

朝ベッドから出ても、まだわなわなしていて、完全に怒りが消えたわけではありません。

あたまでは理解したつもりだけど、こころがまだ、納得をしていない。

 

なぜこんなに、腹立たしいのだろう。

理由はいくらでもあげられるが、その「核」は、なんだろう。

 

その病気が治るのは来年なのか、再来年なのかはっきりしろ。

いつまで親に迷惑をかけるつもりだ。

おれの家事に、カネを払え。

おまえは、治す努力が足りない。

 

パニック障害や外出恐怖で苛まれている息子に対して、上記のようなことを険悪な顔つきで大声で言えば、たぶんだれでも怒るとは思う。

本人は、そうしたくてそうしているわけではなく、一種の不可抗力のようなことで陥っているのに、その言いぐさはないだろう。

赤の他人であればまだ理解できても、実の親が、そういうのです。

 

それにぼくは、確かに外出恐怖で引きこもりがちではあるが仕事はあり、家賃も払い、家事も一部負担している。

徐々にではあるが、体調も良くなり、収入も以前に比べれば格段に増えてきていて、ふつうのサラリーマンよりは多いぐらいだ。

ここに至るまでに、自分で言うのもなんだけど、たいへんな努力をしました。

外出ができないのなら、外出ができなくても稼げる方法を探すか作ろうと、いっしょうけんめいに模索してきました。

 

もちろん、不具合を抱えたままでもそういった努力ができたことや、それなりに収入を得ることができるようになったのは両親の助けがあったからで、とても感謝はしています。

だからぼくは、ぼく一人で戦っているのではなく、両親と一緒にこの病に立ち向かっていのだと、そう解釈していたところもあります。

この気持はとても精神の安定に有効でした。

普段から決して両親に無理を頼むことはなく、外出関係でお願いをするときには平身低頭に依頼し、感謝をしていました。

日々の家事についてもねぎらいの言葉をかけていたし、大変だろうからオレがやると言っても、両親は「これぐらいなんでもない」と言い、代わることを拒否します。

これも両親の優しさであろうと、ぼくは解釈していました。

すくなくとも、無収入で引きこもり、親に悪態をつくような生活は、一度たりともやっとことはない。

病気に関しても、酒やたばこもほとんどやめて、飲み歩くことは一切せず、非常に規則正しい生活を送り、治す努力は人一倍してきたつもりです。

 

ぼくの怒りの正体は、なにか。

それは「べき」の呪縛なのではないか、と思います。

 

親は、ぼくの病について、理解してくれているものだと信じていた。つまり、言い方をかえれば、

親は我が子の病について理解しているべきであると思っていた、ともいえる。

また、それ以外にも、

・親切で行う行動については、見返りを要求するべきではない。
・努力は、親に認められてしかるべきである。
・家事について家族に金銭を要求するべきではない。

・家族に対してでさえ、傷つけるようなことばを容易に使用するべきではない。
・家族は無償の愛でつながり、仲良くするべきである。

というような「べき」が、ぼくのこころにはありました。

 

こういったことが、一気に打ち砕かれた気がした。

なのでぼくは、自己防衛反応が働き、非常に怒ってしまったのだと思います。

 

しかしよくよく考えてみれば、これもぼくの「甘え」です。

ひじょうにキツい言い方ではあるけれど、家族は他人の一種です

だから自分のことをわかってもらおうと考えるのは、すこし無理な要求でもあったのです。

親というのは、見知らぬ他人に比べればすこしだけ多く、自分のことを知っているにすぎません。

無償の愛、わかりあえる仲、そんなものは、映画やドラマなどがつくりあげた空想やテーマにすぎないのです。

血のつながった親子でさえ、わかりあえないところは、厳然とある。

残念ながら、これが真理です。

だから、じぶんの思いが家族に伝わらないことなんて、ふつうにあって当然。

 

われも人間、かれも人間。

春先は、いらいらすることも多い。

ましてや父はもう80歳を前にした老人で、酒を飲めば感情のセーブが効きにくくなることもあって、おかしくはないでしょう。

ぼくを心配する気持ちもまた、ストレスであることには違いありません。

 

ぼくは、ぼく自身でつくりあげた「べき」に呪縛されていた。

ただ、それだけなのだと思います。

だからこそ、父が発した心無い一言に、過剰に反応をしてしまった。

 

そして、やはり確信しました。

昨晩からほとんど眠れず、わなわなしていた、この感覚。

これは間違いなく、パニック発作の「あのエネルギー」です。

ぼくのパニック発作は「怒り」でできていたのです。

低血糖、栄養素、血流、そんなこともあるかもしれないが、メインの構成要素は、怒りだ。

 

なぜ、こんなに怒りを貯め込むのか。

それは「じぶんは、こうあるべきである」ということに、呪縛されているからだと思います。

よい息子であるべきだ。

よい人であるべきだ。

社会人として責任ある行動をとるべきだ。

親孝行をすべきだ。

親に恩返しをすべきだ。

よい親であるべきだ。

愛想よくするべきだ。

礼儀正しくあるべきだ。

まじめであるべきだ。

 

そんな、呪いのようなものに、拘束されている。

まじめなひとが神経やメンタルを壊しやすいのは、これが大きな原因かもしれませんね。

「べき中毒」。

上記はほんとうは、すべて「べき」とかではないのです。

せいぜい「そうしたほうが良い」「そうしたフリをしておいたほうがトク」程度のこと。

 

心理学系の実験結果でも「まじめで誠実なひとのほうが、腹黒い」というのがあります。

ぼくの親父は実際に、とてもまじめで、誠実です。

 

親父が突然、悪魔のようなことを言い出すのには、わけがあった。

そういえばかつて、正直血の気が引いたことがります。

3.11。

あの東日本大震災の実況をテレビで見ながら、親父は笑っているのです。

「見てみ、家が流れとる。けけけけけけけ」

ぼくは震災を経験しているし、あの映像を見た時には戦慄が走って当時の記憶がよみがえり、笑うどころか、ことばさえ失いました。愕然としました。

しかし父は、ぼくの横で、まるで愉快な漫才でも見ているかのように笑うのでした。

親父じしんも、震災を経験しているというのに。

これはほんとうに、ぼくの父親なのだろうか。

ある意味、震災よりも、親父のほうが怖くなった。

 

まじめで誠実な人には「闇」がある。

ぼくにも親父ほどではありませんが、まじめで誠実なところがあります。

だからおそらく、ぼくのこころにも、闇がある。

 

まじめで誠実なひとがなぜ、多くの闇を抱えるか。

それは「まじめ」と「誠実」は、かならず裏切られる性格のものだからです。

多くの「べき」を抱え込み、それを守りながら、生きていく。

しかしその「べき」は本来、時間とともに、経験とともに、また条件によって、柔軟に随時変化するはずのものです。

なのにいったん決めた「べき」を変化させず、かたくなに守ろうとすると、世界とズレが起こり始める。

そのズレこそが、闇だ。怒りだ。

 

この世界は「まじめと誠実」だけで渡っていけるほどに、単純ではないですものね。

守ることとおなじぐらい、捨てることも必要だ。

断捨離するなら、じぶんが決めつけた「べき」をまず、断捨離したほうがいいのかもしれませんね。

そんなものを後生だいじに抱えていたって、闇と怒りが増えるだけだ。

だれかを傷つけない人になりたければ、強くならないこと、弱さを知ること、といいます。

まじめで誠実であることを強く守りつづけると、いつか誰かを、盛大に傷つける。

「怒るな」ではなくて、「怒りの原因になっているこころの要素を捨てよう」。

 

考えてみれば、両親と同居するようになって10年。

それで僕の病気は改善するところか、かえって悪化しているところもあります。

親に気を遣ってしまうからですね。

「親に治っているところを見せて安心させたい」と考えたりもするから。

このあたり、「まじめで誠実」でしょう?

だからぼくの中の闇は、いつまでたっても、消えないのかもしれません。

 

 

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