思考と感情の切り離し

なぜ、不安になるのか。

これを考えるにあたっては、まず「不安とはなにか」ということを考える必要があります。

 

不安とは、

1.未来に起こる可能性があると「考えられる」事象のうち、

2.自身にとって不利益になるものごとに対する、

3.こころの「反応」のことである。

ということが言えると思います。

 

地震が起こるのではないかと思うと、とても不安。

でも、まだ地震が起こったわけではない。

起きてから恐怖を感じるのはまだわかるとしても、いまだに起こっていない事象に対して恐怖を感じるのはなぜか。

それは「起こる可能性」を想像し、それによって被るであろう、自分への不利益を想像することができるからです。

そして、なぜそれを明確に想像できるかというと、実際に経験をしたことがあったり、知識としてその被害の強さを知っているからです。

つまり、記憶や知識にも依存している。

想像と記憶、あるいは知識によって得られたビジョンに対して、こころが反応し、恐怖や不安に至る。

 

「だから不安とは結局、想像の産物である。想像に過ぎないものに対して恐れを抱くのはたいへん不合理である」

そんなふうな強引なりくつを言うひともいます。

しかし、想像に対して不安を抱くことは、なにも不合理ではないです。

あたりまえだともいえるし、だからこそ人間だともいえます。

この機能がなければ、おそらく人間は、ここまで繁殖できていなかったでしょう。

 

「これは妄想なのだから、恐れる必要などない」

そう考えることで不安を解除できるのであれば、なにも苦労はしないともいえます。

パニック障害を患った経験があるひとならば、とてもよくわかると思います。

「この動悸で、私は死んでしまうだろう」

発作中、確実に思う。

しかし本人は、じつはちゃんとわかっているのです。

「そんなわけない」

ということは。あたまでは、いやというほど、わかっている。

「妄想の否定」をしたところで、不安という感情は一切解除されないのです。

まさに、机上の空論といえます。

なので、この例をとっても、確実にいえます。

思考と感情(こころの作用)は、別物である」。

 

なぜ、想像や妄想に不安の原因を求め、それが現実ではないと理解できても、不安は止まらないのでしょうか。

不安とは、

1.未来に起こる可能性があると「考えられる」事象のうち、

2.自身にとって不利益になるものごとに対する、

3.こころの「反応」のことである。

 

「想像と現実を混同している」つまり「考え過ぎである」ということに、不安の原因を比定すると、上記のうち「1」と「2」の部分を操作しようと考えます。

起こる「可能性」を、考えないようにしよう。

起こる可能性のある事象を「不利益である」と、評価しないようにしよう。

こういうことを、しようとしているのですね。

しかしこれは、残念ながらたぶん無理です。

なぜなら人間には「危険予測」の機能があるからです。

これはヒトという生物のOSに深く刻み込まれている機能で、これをやめろというのは「死ね」と言っているのと、ほぼ同じです。

あるいは、クスリでラリってしまうか、その脳の機能を外科手術で切除してしまわなければなりません。

つまり、とても強引で、現実味のない方法論。

 

操作できる可能性があるのは、最後の「3」かもしれないのですよね。

予測してしまうのは、しかたがないことです。考えてしまうのも、評価してしまうのも、しかたがないこと。

いちど嫌なことを経験してしまったり、知ってしまったら、ヒトはそれを記憶します。

その記憶から複雑な演算を行い、未来に対して準備をしようともします。

これは、ヒトの欠点ではなく、むしろ美点です。

 

結局不安というのは感情=「こころの作用」にすぎない。

こころの「作用」だけを、こころから切り離すことができれば、不安はかなり減るかもしれないのですよね。

 

心臓が、きゅうにバクバクした。

これはもしかすると、病気かもしれない。

死んでしまうのかもしれない。

あるいはまた、以前のように、空想の恐怖に苛まれ、うちのめされて、行動不能に陥るかもしれない。

 

ここまで考えてしまうのは、許す。

こうなるのは、ヒトとしてなにもまちがってはいないし、ただ「考えてしまった」だけなのですもの。

「わたしはいま、不吉なことを、考えてしまった。」

そうです。

「しかしこれは、わたしの考えにすぎないこと。」

そうです。

「わたしの考えが、実現するとはかぎらない。」

そうです。

「わたしの思考と、感情は、まったく別ものである。」

そうです。

あたまでわかっていても、不安は解消できない、それはつまり、思考と感情は本来別物だということ。

考えたからといって、感情に影響するとは限らない。

わたしは、たしかに、考えた。

しかし考えたことに、反応するかどうかは、結局わたしの一存だ。

「反応しない」という選択肢も、たしかに、ありうる。

 

思考と、感情を、切り離す。

この文字列だけをパっと見ると、ひじょうに難しいことのように感じます。

そんな高僧のような、達人のようなことが、じぶんにできるわけがない。

 

でも実際にやってみると、それほど難しいことではない、ということもわかったりします。

もちろん、とてもカンタンだ、ということではないです。

しかし「考えない」ことよりは、何倍もカンタンなのですよね。

考えない、あるいは予測しない、というのは、これはもう「絶対に無理」です。

だって記憶は、じぶんの都合で消えてくれたりはしないのですもの。

ある日とつぜん、自分の采配で、いますぐ記憶喪失になれる。

あるいは、自分の采配だけで、自由に記憶の印象操作ができる。

そんなこと、それこそ命がけの修行を積んだ高僧でさえ、無理なのではないでしょうか。

それが万一できたなら、それはそれで病気です。

 

ものすごく難しいプログラムを書く。

高速道路をひとりで、自力で作ってしまう。

それよりかはずいぶん、かんたんかもしれないな。

そんな気もします。

今日やってすぐにできるわけではないけど、日々練習していけば、そのうち高い確率でできるようになる気はします。

 

予期不安は、この絶好の「練習のチャンス」だとも思いました。

なんか、妙に不安を感じるぞ。

その回数が多ければ多いほど、練習の機会がふえるのです。

 

いまわたしは「反応をしているだけ」。

鼓動が高まったことを引き金にして、それと記憶をむすびつけ、きっと不愉快なことが起こると、わたしは考えた。

その考えは、否定しない。まったくのまちがいでもないから。

しかし、それで、いったん、終わり。

ヨブ記38章11節だ。

「ここまで来るのはよいが、先へ進むな。」

いくら考えてもよいが、対岸の感情までは行くな。

 

からだの状態とこころの反応が、セットであるべきだというルールはどこにもないんですよね。

動悸がしたからといって、めまいがしかたらといって、不安にならなければならないという決まりはないです。

生物学的にも、からだの状態とこころの反応は、すこし切り離されている方がきっと有利です。

ほんとうにがっつり組み合わさってしまっていたら、指先をちょっと切っただけで心も傷ついて、みいんな行動不能に陥ってしまいます。

からだとこころは、すこしだけ離れているから、しっかり生きていられるのですよね。

こころはこころ、からだはからだ。

 

だから、きっとできるのだと思います。

長年のクセだから、難しく感じるだけかもしれない。

自転車と同じように、コツを一回つかめば、一生あたりまえのようにできるかもしれませんよね。

日々、練習していこうとおもいます。

 

パニック障害というのは、「こころの病」でも「神経の病」でも「脳の病」でも「思考の病」でもないのかもしれません。

思考と感情の距離感が誤っている」だけの可能性もあります。

近い近い、近すぎる! ってやつです。

あまりにも、密接すぎるのですよ。

この距離感以外のほかのことは、基本的に全部、正常に見えるのです。

 

 

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