不安は自由の眩暈である

キェルケゴールのことばに、

「不安は自由の眩暈である」

というのがあるそうです。

 

不安は可能性という無が生み出す自由のめまいである。人間は不断に未来へ向かって自己形成を果たしつつあるが、その未来はそのつどいまだ実現していない〈無〉であり、各人が主体的責任において自由に処していかなければならない開かれた可能性である。この大いなる無を前にしてたじろいでいる感情が不安である。したがって、不安の現象は、人間が根源的に自由であることの証左である。この自己の未来に誠実に取り組むことをおこたり、自由な可能性を閉ざして、日常的な惰性で日を過ごしたり刹那的享楽に没入したり、あるいは大衆の判断に身をゆだねたり客観的公共性に責任を押しつけたりすることが、不安からの逃避として生じる。

 

そういえば「手帳が真っ黒でないと気が済まない」という人もいます。

とにかく、なにか用事をひっきりなしに定義しておかないと落ち着かないという。

そういうのはなんか心が貧しいようでイクナイ、というような風潮もあるけれど、ある意味それは「正しい行い」であったかもしれませんね。

スケジュールを詰め込むことが悪いのではなく、スケジュールを詰め込む人はこころに不安を抱えている、ということなんだと思います。

自由というのは本質的に不安であり、また人間が不安を感じるのは本質的に自由だからである。

ということは、手帳を真っ黒にしたがる人というのは、まことに人間らしいということかもしれません。

 

ぼくも心あたりがあるのは、休みの日とか、仕事がヒマなときって、よく不安になってパニック発作が出るんです。

で、かなり体調が悪くても、仕事をしている時は意外と不安はありません。

 

というかそもそも、ぼくは個人事業主の在宅ワーカーです。

「自由のカタマリ」みたいなところがあります。

たとえば、いま急に風呂入ったってべつにかまいません。

納期さえちゃんと守れば、なにをしたってほんとうに自由なんです。

 

このへんは、いわゆる勤め人の人からすれば、むちゃくちゃ羨ましいところだと思います。

でも実情は、そうでもないのですよね。

自由が多い生活は、不安も多い。

決まった時間に会社に行き、会社に拘束されるほうが、いがいと不安は少ないのですね。

なんでもできるということは、なんにもできなくなるぐらいの不安も同時に生まれる。

 

自由の対義語は、不自由である。

というのはじつは案外浅はかで、ほんとは「自由は不安であり、不自由は安心である」というのが、実情に近いのかもしれませんね。

これはゼイタクとかなんとかいう話じゃなくて、人間とはそうしたものなんだと思います。

人は、隣の芝生を青く思うもの。

不自由な安心に埋もれている人は、自由で不安な人を羨ましく思う。

 

だからぼくのような自営業者は、積極的に「不自由になれること」を増やしていくことが、安心への近道なのかもしれませんね。

つまり、仕事を増やしていく。

 

自由ということについて、もう少し突っ込んで考えたほうが良いかもしれませんね。

自由ということが、なんの欠点もなく天国的に最上であるというのは、ちょっと甘すぎる考え方かもしれません。

仏教やヨガなんかでも、最近は「本質的な自由」みたいなことを言うことがあります。

いがいと、そんなチョロい浅い話じゃないのかもしれませんね。

本質的な自由を手に入れるということは、じつは本質的な不自由に拘束されないと実現できないことなのかもしれません。

 

自由とは、不安なものである。

これを知ったぼくは、すこし安心できました。

ぼくがおかしいんじゃない。

これでふつうなんだ、って。

 

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