フォーマルと自尊心

ぼくはここ数年「フォーマル」ということを忌避していたところがあります。

格調高いとか、正式とか、マナーとか、そーゆーのなんか、うぜってーなー!

そもそもの話、ヒトを外見とか服装でどうこう判断するのは人間が小さいぜ!

ヒトはみんな平等なんだ、だからみすぼらしい格好をしていたって、その人の価値は変わらないんだ。

「清貧」という言葉や「知足」という言葉もあるし、安物でだらしない格好でも満足できるココロのほうが大事なんだ。

フォーマルな着こなしとか、そういう華美なことに神経使うのは、バカがすることなんだ!

 

ま、どっちがバカかというと、こういうことを考えるほうが、バカなんですよね。

まあ確かに、

・人のことを服装や外見だけで判断してはいけない
・服装が変わっても、その人自身はかわらない

この2点は、とても正しいことのように感じます。

しかし!

じつはこの2点こそが、ひじょうに間違った考え方だったのですね。

 

「ピグマリオン効果」というのがあるんです。

人は、周囲から期待されたような人になっていくし、服装によっても性格は変わっていく。

ナポレオンも言っていますが「人はその制服どおりの人になる」。

つまり服装を変えると、人は変わるということなのです。

だから「服装が変わっても、その人自身はかわらない」というは、理屈だけの甘い考え方だということですね。

こころって、じつはチョロい女みたいなんです。

自分自身では、自分の考えには根拠があって、それは強固なものであると考えがちです。

また性格は遺伝や経験を通じて長年かけて醸成されたものだから、そうそう変わるものではないとも考えます。

しかしそれはわりと短絡的な考え方で、ほんとうは「日々のわずかな外部 / 内部刺激」によって微細な変化が蓄積されていってる。

無理にでも笑顔をつくっていると、こころは「いま楽しい」と少し勘違いする。

口笛を吹けば、こころは「いま楽しい」と少し勘違いする。

いいことばを使えば、こころは「いまやさしい気持ちだ」と少し勘違いする。

きたないことばを使えば、こころは「いまはやさぐれている」と少し勘違いする。

もちろん、こんなことを一回やったぐらいで何かが突然奇跡みたいにに変わるわけではないけれども、日常的に継続すると、人はそのような人になっていく。

これと同じように「きちんとした身なり」を継続することは、その人の性格や考え方も醸成していく。

 

フォーマルというのは、根源的なことでいけば「敬意」なんですよね。

宗教的なことにせよ、社会的な儀礼にせよ、その場に存在する人や概念に対しての敬意のあらわれがフォーマルということです。

フォーマルな場にいるということは、自分も周囲に敬意を払ういっぽうで、自分もまた周囲から敬意を浴びている。

敬意のルツボ、それがフォーマルということです。

ただ、敬意を重視するとどうしても自由さは失われていくから、堅苦しくなるのも確かです。

この堅苦しい雰囲気にアレルギー反応を起こしてしまうと「フォーマルなんかくそくらえ!」となる。

これはフォーマルということの本質から乖離して「わたしの安楽さ」だけを重視してしまった、自己中心的な価値観の帰結です。

つまり、ガキの考え方でもある。

 

フォーマルから完全に逸脱し、カジュアルのなかだけに埋没していくと「敬意」を失う可能性があるんですよね。

問題なのは、それが人や社会に対してだけではなく、自分自身に対してもそうなってしまうところです。

フォーマルな挙動を完全に失うと、自己肯定感もダダ下がりになってくる。

それは「自分への敬意」を失っていくからだと思います。

きちんとした身なり、きちんとした言葉遣い、きちんとした身のこなしを全部捨てて、野良犬のような生活を続けていくと、どんどんゲスになっていくんですね。

合理、という言葉が大好きになり、無駄、ということにアレルギーを持つようになる。

合理的で無駄のない生活を完璧に推し進めていけば、それは最終的には「ただ生きていれば良い」ということになっていく場合があります。

まるで、野良犬のようになっていく。

儀礼も、遊びも、文化も、ぜんぶ無駄だし、非合理です。

もっといえば「生きている」ことじたいが、そもそも非合理なんですよね。そこに本質的な目的や意義なんか、ないんだから。

合理というのは「目的と手段」に関する考察なので、目的が存在しえない概念に対して使用すると、いっぱつで崩壊します。変な方向にいく。

だから合理、非合理の観点だけから生命を論じていけば、人間の価値はどんどん崩壊していって、厭世的になっていくのがオチです。

フォーマルを完全に排除するということは「人間性を捨てる」ということと、かなり近い位相にある可能性があるかもしれないんですよね。

 

朝起きたら、ヒゲをそり、歯を磨き、頭髪を整え、女性なら化粧をする。

そして、フォーマルな格好に着替える。

こういった一連の「ルーチン」を排除すると、人はどんどんやさぐれていくような気がするんです。

もちろん、休みの日は楽な格好のままでも良いのでしょうが、「オンの日」は、フォーマルでオフィシャルなルーチンを忘れないようにする。

こういうのって、「ものすごく」大事なことかもしれないんですよね。

でも在宅ワークだと、どうしても優先順位が下がっていってしまうんですね。

「だれにも会わないんだから、じぶんがラクな格好のほうが健康的だし、合理的だ」

これまた「合理」などという幼稚な思想に飲み込まれて、フォーマルをどんどん放棄していく。

そして自己肯定感が下がっていき、なんのために働いているか、わけがわからなくなり、ウツっぽくなり、疲労がとれなくなって、そのうち「断捨離」とか「ミニマリスト」とか言い出して、すべてを放棄しようとする代償行為に走るようになる。

そう言われたら本人は必ず気分を害して怒るだろうけど、これを日本語で「だらけている」というのですね。

朝起きても着替えない、グルーミングもしない、掃除もしない、風呂も適当、オシャレもしない。

そういうことを続けていくと、まずココロがやられる。

ココロが、こう思ってしまうんですね。

「わたしなんて、着飾る価値もない、くだらない、安っぽい人間なのね。そうなのね」

フォーマルを排除することで「自分自身への敬意」も失っていく。

もう、なんでもいいや。

そう思うのは、心が寛大になったのではない。やさぐれただけなんですね。

 

フォーマルは自己肯定感を強化する。

けじめある、いきいきした生命力あふれる生活を送るためには、ビシっとした格好はやっぱり必要なんだと思います。

この世の中に存在するもので、不要なものは、なにもない。

いらない、と思うのはだいたい、じぶんのココロがやさぐれているときですね。

 

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