心配性は、この世で最大の害悪である。

きょうはこんな本を読みました。

 

いくつか、なるほどな! と思うところがありましたよ。

 

人間には「ミラーニューロン」というのがあるのだそうです。

自ら行動する時と、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞である。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように”鏡”のような反応をすることから名付けられた。

つまり「感情や気分が伝播する」ことの原因ということですかね。

合ってるかどうかわからないけど、たとえば「あくびがうつる」っていうのも、そうなのかもしれません。

べつに眠くなくても、あくびをしている人を見たら、ついあくびをしてしまう。

ウツなんかも「被爆する」という言い回しがあります。

家族にウツ病のひとがいると、家族にまで伝染してしまう。

疫学的な観点からすれば、ウィルスや細菌性のものではないのだから、ウツが人にうつるというのは認められないはずです。

でも実際には、そういうことはよくある。

とくに、親がウツだと子に伝染りやすいというのがあるようです。

これもたぶん「ミラーニューロン」のなせるわざなのかもしれません。

 

「不安」もまた、そのようなのです。

たとえば家族に強い不安を抱えたひとがいると、それが伝播することがある。

とくに感受性の高い子どもなどに、よく伝播する。

親が心配性だと子も心配性になるというのは、必ずしも遺伝だけではなく、ミラーニューロンによって子が親の神経をトレースした、ということが考えられます。

これはぼくも思い当たることがあります。

ガキのころは、少し引っ込み思案で心配性なところがありました。

しかし就職して一人暮らしをするようになったり、結婚したりして親元を離れると、ぜんぜん心配性じゃなくなったんですね。

むしろ、能天気になっていった。

しかしまた親と住むようになって、ぼくは心配性がぶり返したところがあります。

両親、とくに母親はひじょうに心配性で潔癖症なのです。いつも何かを心配しているし、外食を不潔といって頑なに避ける。

ふしぎだったのですよ。

どうしてまた、心配性がぶり返したりしたんだろうか。

これも母親の遺伝子が時間差で発露したということなのだろうか。

「ミラーニューロン」で、説明がつきます。

身近に心配性のひとがいると、影響を受けて同じようになってしまうことがあるんですね。

 

いまの不安が「ミラーニューロンによるものか」「自分自身が原因で発生したものか」を見分けるのは、とても簡単なのだそうです。

ミラーニューロンによって起きた不安は、「どうしたって解除できない」。

いっぽう、自分自身が原因で起きた不安は、原因さえ理解して努力すれば「割と容易に解除できる」。

という特徴があるんだそうです。

理由はおそらく、ミラーニューロンが引き起こした不安の場合は、原因が自分にはなく、投影された不安だからだと思います。

実態がないゆえに、なにを操作しても反応そのものは解除できない。

壁に写った影絵をいくらこすっても消えないのと、同じですね。

これを解除するには、スクリーンそのものを除去する — つまり神経そのものを薬物等で麻痺させる — か、あるいは「徹底的に無視する」しかないのかもしれません。

 

この考えは、起きているトラブルをすべて他者のせいにしてしまい、現実から逃避させる危険性もあります。

しかしいっぽうで、根強い不安に塩を塗るような過剰な頑張りや、粘着性の高い執着を取り除くメリットもあります。

「この不安は、私のせいではない」

そう思うだけでも、不安は軽減されるかもしれません。

また実際のところ、元来それほど心配性でもなかった人が、突如異様なまでの不安を持つようになるということの説明にもなります。

従来は、それはすべて本人の気質や認知のクセによるものと考えられてきましたが、ミラーニューロンという特殊な神経機能の概念があれば、もう少し原因を幅広く模索する可能性が出てきます。

神経や栄養素、遺伝子や情報伝達物質等の肉体・物質系の解釈だけでなく、「人と人のかかわり」という、いわば概念的・情報処理的な視点も持てるわけです。これは神経病理に、かなり大きな改変をもたらす可能性があります。

 

個人的に、腑に落ちるところはあります。

ぼくがパニック発作を発症したのは、神戸を離れて関東に異動になった直後でした。

また同時に結婚しましたが、母はこの結婚に賛成していませんでした。

母のぼくに関する強い不安が、ぼくのミラーニューロンを介して発現したとも考えられます。

また母とぼくは、最近まったく同様の、自律神経失調症の症状を訴えています。

これもぼくと母の間で、相互にミラーニューロンを介して起こっている事象かもしれません。

考えてみれば、ただでさえ心配性の母親にとって、我が子がパニック障害や広場恐怖などという病気を患っていることは、かなりの不安材料でしょう。

また最近ぼくの娘が我が家で一緒に暮らすようになり、かつ、母の妹さんが病死したこともあって、母の心配性がさらに激化したことも考えられます。

強い不安は、家族に伝播する。

これは十分に考えられる可能性です。

 

そこでぼくは強く思うのです。

ミラーニューロン云々の話はさておいたとしても心配性は罪だ、と。

性格だとか、性分だとか、優しさの裏返しだとかいうことで、甘く抱擁してはいけない。

むしろ断罪するべきなんだ。

まだ起きてもいないこと、ただの予測に過ぎない妄想のようなことで、ありもしない悪い結末を予測することは横柄にも程がある。

強い妄想があるということは、自分の判断基準への強い自信があるということです。

これは、傲慢の罪だ。

ほんとうは、未来のことなんて、お釈迦様でさえわからない。

それなのにただの凡夫にすぎない、巷の一介の人間にどうして「わるい結末」が予想できるだろうか。

そんな未確定で不確定な物事に強い不安を抱けば、その不安はミラーニューロンを介して、周囲の人間まで被爆させてしまう。

これは「悪事」といって過言ではないと思います。

 

だから、決心した。

ぼくがよけいな心配をすれば、その不安は娘を被爆させる可能性がある。

我が子が可愛ければこそ、愛していればこそ、不安になってはいけないんだ。

「心配しておけばなんとかなる」ほど、この世は甘くない。

そしていくら心配したって、なんにも解決しないばかりか、その人の能力にリミッターをかけてしまい、自由さえも奪う。

親ができることなんか、たかが知れているのです。

そんなしょうもないものを使うよりも「社会全体に助けてもらう」ほうが、よっぽど利口だ。

我が子を心配するだなんて、いったいじぶんを、何様だと思っているんだ!

「心配することは愛だ」とか、どんだけケチくさい愛だ!

子は、親が育てるんじゃない。世間様が育ててくれるんだ。

子の成長を願えばこそ、不安を突破して、どんどん社会に接点をもたせてやるべきなんですね。

そうすれば、世間様が子を育ててくれる機会がぐっと増える。

 

心配による「家族間の不安の負のループ」を断ち切るためには、ひとつしか方法がありません。

それは、

心配することを、やめること

です。

心配しない方法は……だなんて、甘っちょろいことを言ってたら、だめなんだ。

心配するなといったら、ぜったいに心配すんな!

心配は、この世で最大の害悪である! あぶないことなんだ! 人様に迷惑をかけるんだ!

ぐらいハラ決めて、心配から「解脱」せんといかんですね。

心配性であることに、ひとはもっと危機感をもつべきだ。

それは自分が損するだけじゃなくて、周囲の人まで苦しませる。

「じぶんのために」「家族のために」とかじゃなくて「人類のために」、心配症を突破しよう。

 

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