明るい愚痴なら、いいんじゃない

まったく原因不明に、すごいイライラする。

これをネットで検索すると「更年期障害」とか「うつ」とか「自律神経失調症」とかのワードがいっぱい出てきます。

どうやらネットは人をすぐに病気にしたがるようですね。

 

ぼくもネットの検索結果からそう思っていたんだけど、ふと気がついたのです。

このイライラを「原因不明だ」と思ったのは、だれか。

ほんとうに、原因不明か?

じぶんでは思い出せていないだけで、ほんとうは原因はあるんじゃないか?

 

感情を押さえつけているところが、あるんじゃないか。

異様にイライラしているとき、こころの状態がどうなっているのかをできるだけ冷静に観察してみる。

そうするとどうも、これは「溜まった愚痴」なんじゃないか、と思えるのです。

というのも、ぼくは幼少のころから「文句は言うな」という躾をされてきました。

武士の家系だったのもあるけど、わりとそういう躾をされてきたひとは多いんじゃないかな。

文句を言うな、愚痴をいうな。

 

スピリチュアル系でも、よく言われますね。

「愚痴を言うと、自分にかえってくる」とか。

「愚痴を言うと、運気が下がる」とか。

「愚痴は愚痴を呼ぶ」とか。

ぎゃくに愚痴や文句を言わず、褒めることばばかり言う習慣をつけていくと、自分の周りには愚痴を言わない人ばかりになり、運気が上がるとか言うひともいます。

心理学でも、愚痴を言うと自己肯定感が下がってしまうという話もあります。

このへんの話や「コトダマ」という概念とあいまって、「愚痴は言うべきではない」という自己制限を強化された人も多いような気がする。

 

さて、すなおに考えてみたんですね。

愚痴や文句を言わず、褒めることばばかり言う習慣をつけていくと、自分の周りには愚痴を言わない人ばかりになり、運気が上がる

 

自分の周りには愚痴を言わない人ばかりになる。

 

おい待て。

待てコラ。

 

気持ち悪すぎるだろうが!

 

なんじゃその演劇的な世界は。

 

よく思うんだけど、スピ系のひとって「本物の親友」とかいないんじゃないか。

じつは、ヒトのことが嫌いなんじゃないのかなあ。

腹を割って一緒に愚痴を言い合えるような、仲の良い友達がいないんじゃないか。

表面的な付き合いしかしてないんじゃないか。

一切愚痴を言わず、良いことしか言わない、薄ら笑いを浮かべたポーカーフェイスばっかり集まってきたら、むしろ怖いわ。寂しいわ。

ていうか、気が狂うわ。

そんな人生、もう失敗だわ。

いっしょうけんめい生きていったら、良いことばっかりじゃないです。

ときにはつらい、いやなこともある。

そのイヤなことを、誰にも言うなってか?

そのかわりに、良いことばっかり言えってか?

アホか!

そんなことしてたら、ココロがケガれるわ。

 

確かに、会うたびにじめじめした文句「ばっかり」言う人は、気色悪いし、鬱陶しいです。

かといって、一切文句も愚痴も言わないような人は、まったく信用できません。

たまに文句を言うからこそ、そのひとは信頼される。

ああ、この人には感情があるんだなあ、文句が出るほど真面目に取り組んでいるんだなあ。

そしてその文句を私に打ちあけてくれるということは、私にココロを開いてくれているってことなんだろうなあ。

って、思って安心する。

その愚痴の内容がじぶんの価値観と合致すれば、さらに安心は強化されます。

 

愚痴は、どんどん言ったほうが良いのだと思うんです。

ただ愚痴には2種類あると思う。

1.くらい愚痴

2.あかるい愚痴

同じ内容でも、あかるく愚痴れるひとと、ねちっこくしか愚痴れない人がいます。

「文句や愚痴を言うな」

それは「くらい愚痴をいうな」ということなんじゃないかなあ。

 

あかるい愚痴というのは、最後に「笑いに変換できるかどうか」ということだと思うんですね。

漫才でも「ぼやき」というのがあったりしますが、このぼやきが最後まで本気のマジ怒りそのままだったら、全然笑えません。

言い方とか、論の展開、同調などで、笑いに昇華させる手順を踏まないといけません。

最後に笑いに変えてしまえば、愚痴はもう愚痴でなくなるんですよね。

みんなでお酒を飲んで愚痴を言い合うのも、お酒というツールを用いた姑息な手段ではあるけれど、目的は一緒です。

文句や愚痴を笑いに変えてしまいたいから、みんなで集まって酒をのみ、愚痴を言い合う。

愚痴は「酒の肴」に昇華されるのです。

しかしそれが笑いに変わらず、全員で本気で薄暗くねちこく悩み、怒りはじめたら、それはもはや「呪いの儀式」ですね。

それなら、しないほうがマシです。

 

原因不明の怒り。

これは単純に、中途半端な倫理観でもって、「愚痴を言わない」ことを自分に課してきたバチなんじゃないかなあ。

そんなことを、思ったりするのです。

 

たしかに、ぐだぐだと愚痴ばっかりヌカすのは、いただけません。

でも、

1.すべきことは、ちゃんとしている

2.愚痴を最後に笑いに変えることができる

ならば、むしろ愚痴は積極的に言ったほうが良いような気がします。

ウンコをいつまでもお腹のなかに溜めていても絶対に浄化されないのと同じで、こころのなかに溜まった不純物も、ときには言葉にして排出しないといけないんだと思います。

それを「抑え込め」「言うな」「いいことばっかり言え」というのは、どうにもこうにも、ヤバいんじゃないか。

そんなことを長い間続けていくと、もともとの原因を忘れてしまって怒りだけが残る。

だから「原因不明」とか思っちゃうんじゃないかな。

だれしも経験があるはずです。

気のおけない友人に愚痴をぶちまけたら、なんかスッキリした、っていうことが。

 

文句があれば、言えばいい。

悲しければ、泣けばいい。

情動をいちいち押さえ込み、変形させるというのは、人を歪ませる最たる原因だと思います。

ひとは何のために、勉強するか。

それはたぶん、怒りや悲しみを「解決する能力を培う」というのと、あともうひとつ、「苦しみを笑いに昇華させるため」だと思うんですよね。

あかるい愚痴なら、問題なし。

 

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