霊と禅

禅に対してなぜシンパシーを強く覚えるのか、理由がわかりました。

禅は、神秘的なことを肯定も否定もしないし、語らない。

これが大きいような気がします。

ぼくもそういう立場をとりたいと思っています。

 

いわゆる「霊感」ということについていえば、こどもの頃のぼくには多少あったようです。

家に来客があったとき、ぼくはいつも呼び鈴が鳴る前にドアを開けていました。

来ることが事前にわかっていたからです。お客さんはいっつも驚いていました。

ソフトボール大の「光の玉」が何十個も、高速で空中を飛び交っているのもよく見ました。

その光には種類があって、ある種類のものにアタマを突貫されると体調が悪化したり、金縛りになることもありました。

心霊スポットというのも流行ったことがありましたが、実際には霊というのはどこにでもいましたから、べつに怖いと思ったことはありませんでした。

ぼくの感覚からすると、廃屋や墓地よりも、学校や病院など人の多いところのほうが、いわゆる霊といえるようなものが多いという感覚もありました。

ちなみに手相見さんに見てもらったとき、ぼくの手相には両手に巨大な「神秘十字」と、左手に小さい「聖職紋」があるので霊感が強いだろう、と言われたこともあります。

ぼくには、その手相見さんにとくに霊的なものは感じませんでしたけれども。

 

しかしこの程度のことは、こどもの頃ならけっこう経験しているひとは多いです。

ぼくの友人は、小学校の低学年のころ校外学習で訪れた高層ビルのエレベーターに乗っていたときに、

「このエレベーターは、とまる。」

と言い出し、実際に停電で止まってしまいました。

ほかの一般のお客さんもたくさんいてエレベーター内は恐慌状態になりましたが、エレベーターが止まったことよりも、止まることを予言した少年がいたことに恐れをなしていたようでした。

まあ彼はかなり特殊だけど、こどもというのはまだ神経が「新品」なので、カンがするどいというのがあるんだと思います。

オトナには見えない音、光、におい、振動などを察知することができる場合がある。

それが脳内でうまいこと処理された場合に、予言めいたことを言ったり、不可思議な存在を認識したりするのだと思います。

うまいこと処理されないばあいは、一種の幻覚幻聴のようなことで終わる。

 

そういう経験もあるので、ぼくは一概に霊というものを絶対的に否定する立場ではありません。

またいっぽうでそういった霊的、スピリチュアル的な形而上のものごとに深く傾注することはよくない、とも思っています。

そっち方面に凝ってしまうと、ものごとの判断をそっち方面の論理で行うようになってしまうからです。

霊感のない人にかぎって、霊的なものに頼ろうとするところもある。

ぼくの感覚では、霊はほんとうはなにも助けてくれないし、なにもしてこないし、利用することさえもできないというのに。

ただ、存在するだけ。

だから禅のような捉え方に、大賛成なのです。

そういうことにいちいちカマけていても、なんの役にもたたないばかりか、へんな人生を歩んでしまう。

 

そうわかっているのに、やはり神経の調子がすぐれなかったり、ウツっぽくなってくると、そっち方面になだれ込みそうになることもあります。

アタマではそう思っていても、油断をすると「関心」がそっちへ向かってしまう。

個人的には、嫌いではないのですよ。そういう話も。

ロマンがあっていいと思う。

でもそっちに行ったって、結局なんの役にもたたたないし、現実的なチカラはなにひとつ与えてはくれないし、意味も意義もありません。

だから霊的なものごとじたいが存在するか・しないか、というよりも「霊的なものごとに関心を寄せている私が存在している」というほうが適切だと思う。

スピリチュアル的な行動が幸運をもたらしてくれたというよりは、「スピリチュアル的な行動が幸運をもたらしてくれたと考えている私がいる」というほうが適切だと思います。

じぶんがどう感じ、どう考えているかはさておき、霊的な、スピリチュアル的なものというのは実質的には「妄想」とほとんどおなじです。

だから、あまり付き合わないほうがいい。

 

霊的な感性がするどい人というのは、つまり「刺激に敏感である」ということなんだと思います。

ふつうの人には感じられない「菌」のようなものも、なにか感じるところがある、あるいは感染されやすい、といったようなことがあるのだと思います。

だから霊能力のあるひとは「ファブリースに除霊効果がある」「塩水に除霊効果がある」「火に除霊効果がある」「アルコールに除霊効果がある」と感じるのだと思います。

どれも、菌を殺すものですからね。きっと菌的なものの毒素などに、過敏に反応できるメカニズムを持っているひとたちなのかもしれません。

 

もしかすると、だから禅系統では「そうじ」を非常に重視するのかな、と思ったりもします。

体質的にいろんな菌やホコリなどに対して、その影響を受けやすい人がいる。

そんなのをいちいち受けていたのでは、修行の妨げになります。

影響を最小限にするために、神経質なまでに掃除を徹底するのかもしれません。

禅宗のお寺に行くと、ぼくも感じます。

「ここには、なにもいない」

この感覚を「清浄である」というのかもしれませんね。

 

ちょっとへんな方向に関心が向かいはじめたときに、部屋を徹底的に掃除すると、そんな気分も消えるのでした。

不潔な環境にいると、そういったスピリチュアル的なものごとに関心が向かいやすくなるようです。

チリひとつない、あかるい清浄なところにいると、霊的なものごとへの関心が薄れていきます。

 

 

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