坐禅するなら、お酒は飲まずに掃除して

毎晩坐禅をするようになってから、2週間が経ちました。

単純に最近涼しくなってきたからかもしれませんが、あのパニック発作のようなものがほとんど出なくなてきています。

また午前中から昼にかけての、尋常ならざるイライラ、動悸、冷や汗、焦燥感など、自律神経失調症のような症状もあまり出なくなってきました。

ひとことでいうと「落ち着いてきた」という感じです。

坐禅そのものは、じつは2年ほど前に1ヶ月ほど継続したことがあったのです。

しかし残念ながら、当時はあまり効果を感じることができませんでした。

 

iPhoneのアプリで「雲堂」というのがあって、

https://apps.apple.com/jp/app/%E9%9B%B2%E5%A0%82-classic/id418510732

坐禅時間を任意に設定することができます。

今回もこのアプリを使っていますし、2年前もそうでした。

 

今回は15分でやっていますが、2年前は5分からスタートしたんですね。

しかしたった5分なのですが、ひじょうに長く感じました。

あまりにも長く感じるので、「設定を間違えてるんじゃないか」「スマホがフリーズしてるんじゃないか」「スマホの音が出ない状態になっているんじゃないか」などと、坐禅中に確認していたぐらいです。

実際にはアプリもスマホもまったく問題なく、ちゃんと5分たったら終了の鐘の音が出るのでした。

今考えれば、それほどに神経が落ち着いていなかったんだと思います。

たった5分でも、地獄のように長く感じた。

 

今回は初日だけ5分で、少しづつ伸ばしていって、2週間目から15分にしました。

ふしぎなもので、今回はあまり長いと感じないのです。

もうそろそろ、20分に伸ばそうかと考えているぐらいです。

初日こそかなり長く感じましたがだんだんと慣れてきて、4〜5日目には5分なんて短すぎる、とさえ感じたものです。

 

いったい、なにが変わったのでしょう。

この2年で、なにが変わったのか。

 

まずひとつには、お酒をやめたことが上げられると思います。

今年の3月以降、一滴も飲んでいません。

これはけっこう、大きいように思います。

やはりお酒というのは落ち着きを喪失するところがあるのかもしれません。

ドラッグとしていえばお酒は基本的にはアッパー系統で、陽気、活発、溌剌、饒舌になっていくひとが多いようです。

お酒を飲むと、神経の落ち着きがなくなってくるのかもしれないですね。

今回はお酒を長期間まったく飲んでいませんから、5分10分などはとくに長いと感じなくなっているのかもしれないです。

 

あともうひとつ、これもけっこう関係あるかもな、というのがあります。

掃除です。

今回は、坐禅のためというわけでもないですが、毎朝ていねいに掃除をするようにしています。

基本的にチリひとつない、ホコリもない部屋で坐禅をしているのです。

2年前はとくに掃除ということに関心がなかったので、いつもの状態で坐禅をしていました。

 

じつは、坐禅やヨガというのは掃除をきちんとしている空間でやらないとあまり効果がない、という感覚があります。

きちんと掃除をした、非常に清潔な空間で行う坐禅やヨガと、1週間に1〜2回しか掃除をしていない空間で行う坐禅やヨガでは、感覚がまったくちがうのです。

前者は実行後に非常にスッキリして落ち着いた感覚になるのに対して、後者だと何ら効果を感じないばかりか、かえって体調が悪化する場合さえあります。

ほこりっぽい部屋でヨガなどを行うと、考え方がどうもマイナス志向になったり、柔軟性のない画一的な考え方になったり、神経が落ち着かないというのがあります。

坐禅もまったく同じで、掃除を毎日していない部屋で行うと、坐禅の時間が非常に長く感じたり、妄想が多くなったりするようなのです。

 

禅寺は、ちょっと病気なんじゃないのっていうぐらい、徹底的に掃除をします。

またこの掃除は、実質的に坐禅よりも重要であるとさえ言われているそうです。

もしかすると、「掃除と坐禅」というのは、けっして分割してはいけないひとつの「単位」なのかもしれないですね。

いや、もしかすると、これに飲酒も含めて「禁酒・掃除・坐禅」というのは、ひっくるめて「坐禅」なのであって、どれかひとつでも欠落すると、それはもう坐禅ではない、という可能性もあるのかもしれません。

だからこそ、雲水の方たちは禁酒・掃除をかたくなに守るのかもしれない。

そんなことを、ふと思いました。

 

さいきんのぼくたちは、ものごとを要素分割して見る傾向があります。

「科学的」という名目で、ほんらいひとつのものでも、要素分解して一部を抽出し、それを利用しようという傾向が強いです。

だから坐禅についても、その姿勢や呼吸法ばかりフォーカスして、作務や戒律といったものを「坐禅とは別の構成要素」として、アウフヘーベンしてしまう。

そして一部分だけを抽出し、それを実行することだけで効果を得ようと期待するのです。

 

じつはこれが案外、おおいなる間違いの元なのでは、と思うこともあります。

いわば西洋科学的視点の弱点、とでもいえるような。

ものごとというのは、そこに「ある」ままで、すでに完成されていることのほうが多いと思うのです。

あさがおは、根っこも、花も、葉っぱも、つるもあわせて、あさがおです。

あさがおの花だけを摘み取って持ってきても、それはもうあさがおではないです。

元・あさがおであったもの、にすぎません。

 

人間だって、おなじだとおもう。

すでに存在しているものを、構成要素に分割して認知するがゆえに「私には足りないところがある」などという妄想も出てくるのかもしれないです。

わたしは、短所も、病気も、不幸も含めて、わたしです。

わたし自身から何かを引いたり、足したりすると、それはもう「わたし」ではなくなります。

わたしは、いま、ここにある状態で、すでに完成された「わたし」。

それでもじゅうぶんに良かったはずなのに、長年、西洋的な分割視点に影響されすぎてしまったがゆえに、自分自身でさえ「パーツのよせあつめ」のように考えるようになってしまったのかもしれません。

 

結果、ひとりの人を長所だの短所だのという要素に分解して、あたかもそれぞれをパーツ変更できるとする算段を思いつく。

こういう方式に落ち込むと、「短所も含めてわたしという存在である」「欠点も含めて彼という存在である」という認知は、もう不可能になってしまいます。

「いまのわたしは、本来のわたしではない」とか、「わたしはまだ本気を出していないだけだ」などということを思いつく。

これは、たいへんに厳しい世界観です。

パーツの変更が可能なら、「完全を目指すことができる」という妄想を生むばかりか、「現時点でのわたしの完全性」には、まったく関心を持たなくなってしまうからです。

年がら年中、向上心という名のもとに、みずからを「変更」することに躍起になる。

「そのままのわたしを愛する」ことなんか、すっかりわすれてしまって。

 

ダライ・ラマは、「じぶんじしんを愛せないひとは、ひとのことも愛せません」と言っています。

もしそうならば、「そのままの自分を愛せないひとは、そのままのひとを愛することができない」ということになるのだと思います。

じぶんの欠点を治し、長所をのばそうとおもうひとは、ひとのことも、そうおもう。

完全でないと、愛することができなくなってしまう。

完全という考え方じたいが、そもそも妄想であるということも、わすれてしまって。

 

禅はメソッドではなく、ウェイ・オブ・ライフである。

そういう捉え方をするほうが、正しいような気がしてきました。

禅の「いいところどり」をし、瞑想法だけを抽出して実行するというのは、そのうち予想外の大失態を招く可能性もあるかもしれないですね。

禅は、ぜんぶひっくるめて、禅である。

わたしが、長所も短所もぜんぶひっくるめて、わたしであるように。

 

 

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