道元と日蓮

昨晩は、いままでずっとココロに引っかかっていたことが、解消しました。

めでたい!

うれしい!

 

何かというと「日蓮は、道元や臨済を攻撃したことはなかった」という事実を知ったことです。

つまり、ぼくたちが知っている「禅」については、日蓮はとくに攻撃していなかったのでした。

 

母親は熱心な創価学会員で、ぼくは物心つくころから仏壇に手を合わせて「勤行」ということをさせられていました。

生まれてからまず最初にインプットされ哲学が、日蓮正宗の教義だったのです。

その後どうしても矛盾に納得がいかず、母もぼくも創価学会を脱退しました。

ただし、母は大石寺系の日蓮正宗には帰依したままのようです。

ぼくはいったん、完全に日蓮宗系統から距離を置きました。

 

四箇格言、というのがあるのです。

禅天魔、真言亡国、律国賊、念仏無間。

つまり禅宗、真言宗、律宗、念仏宗はすべて、誤った教えであり、それを信仰したり、教義に近づくことは謗法であって、非常に危険である、という考え方です。

ぼくは当然、このような説は信じてはいません。

あたまでは。

しかし、三つ子の魂百まで、ともいいます。

じつはこの四箇格言を無視して他宗のお寺に自由に参拝できるようになったのは、なんと40歳を超えてからだったのでした。

いえ、べつに、たとえば高野山に行くことでバチが当たるなど、そんなことは全然考えてはいません。

・・・あたまでは。

なんていうのかなあ。

なんかこう、「引っかかる」のです。

バチが当たる的なことは絶対にない、と思っているいっぽうで、なんとなーく、微妙に、距離をとらないといけないような気が、ぬぐい去れない。

これが「洗脳」の恐ろしさなんだろうな、と思います。

 

さて、そんなぼくは、ここ1ヶ月ほど「坐禅」をしています。

ぼくの気性に合ってたのでしょうね、全然苦にならないし、神経の具合さえよくなるほどです。

とくに道元の「只管打坐」には、ひじょうに強いシンパシーを覚えます。

神秘や奇跡については肯定もず否定もせず、ただただ坐る。

結果が出るか出ないか、悟れるか悟れないかとかじゃなくて、ただただ坐る。

坐る、坐る、坐る、坐る。

そして掃除する、整理整頓する、生活の規律を正しくする。

とても気性に合っています。

 

ただ、ほんの少しだけ、気になっている……いや、気になるというほどでもないですが、なんかちょっと引っかかる、というのがありました。

四箇格言の「禅天魔」です。

禅宗はよくない、そんなひとつの「説」が、たまにあたまのなかを、ぐるぐるまわる。

もちろんそんなことは信じてはいませんから、そのせいで坐禅をしない、ということは絶対にありませんけれども。

 

禅天魔 ——— 創価学会や日蓮正宗の主張では、これを現代の「禅宗」の否定として使用されています。

しかし、どうやら、歴史的な事実を見てみると、ここでいう「禅」は、現代の曹洞宗や臨済宗を指していないようなのでした。

日蓮が攻撃したのは、当時隆盛しかけていた「達磨宗」という禅系の宗教だったようです。

日蓮の書簡には、達磨宗の宗祖大日坊能忍という人を攻撃する箇所はあっても、曹洞宗の道元や臨済宗の栄西を攻撃する箇所は見当たらないようです。

なお本来禅の嗣法は本場中国の師匠から直伝されるものなのですが、達磨宗の能忍はそれを「手紙だけで」やったそうなのです。

また能忍は経典を読んで悟ったと言っているようで、禅の修行を通じて頓悟したわけでもないようです。

そんなのだから、臨済宗の栄西も能忍のことを批判していたそうで、日蓮の批判も達磨宗に向けてのものだったようです。

達磨宗は現在、もう存在していません。

 

また曹洞宗の道元はそもそも「禅」という名称を使わなかったようで、禅宗と言われることさえも嫌がっていたようです。

禅宗とか○○宗ではなく、ただ「正伝の仏法」だ、と言っていた。

それに何より、道元は法華経を、非常に重大な経典として位置づけていたようです。

「法華経はあらゆる経典の大王であり、それ以外の経典はその臣民や眷属だ」とまで言っていて、だから曹洞宗の教義の中心は法華経なのだそうです。

道元自身、亡くなる前には法華経を読誦していて、庵の柱に「妙法蓮華経庵」とスミで書いたそうです。

だからそんな道元の思想を、日蓮が攻撃するとは考えにくいです。

 

現代の日蓮宗(創価学会と大石寺系)は禅宗のことを「坐禅によって即身成仏を目指すのがおかしい」と言っているけれども、禅宗は坐禅で悟ることを目的とはしていないし、むしろ悟るために坐禅をするのはよくないとさえいっています。

教外別伝というのがおかしい、と言うけれど、これはオリジナルの教義を持つという意味ではなくて、文字やコトバでは伝えきれないことを重要視する、ということのようです。

また禅宗が依拠している「大梵天王問仏決疑経」は偽経だからダメだ、というけれど、べつに「依拠」しているわけでもなんでもなく、膨大な数がある公案のひとつに引用された「拈華微笑」の出どころに過ぎないわけで、この経典に教義の多くを負っているわけではないようです。

 

禅の思想は非常に難しいので、現代の日蓮宗系のひとたちは、よくわからなかったんじゃないかな。

じぶんのところの教義しか真面目に勉強していないし、他宗を攻撃するための勉強しかしていないから、しらない分野のことはどうしても、邪推になってしまうんですよね。

現代の日蓮宗系の折伏は、表面的な言葉尻や事実の羅列からの憶測に過ぎないものが多いようです。

 

邪推に過ぎないようなものに振り回されていた俺って……。

情けないと思ういっぽう、ひじょうにあたまがスッキリしました。

もう、惑わされないと思います。

 

ちなみに道元は、仏教だけではなく老荘思想や儒教なども幅広く学ぶべきだ、とも言っていたそうです。

ぼくはこの考え方に、すごくシビれます。

勉強、というのなら、自宗派の教義だけにゾッコン入れ込むのではなく、世界のいろんな考え方を広い視点で学んでいくべきだと思います。

学べば学ぶほど、そこには「優劣」というものはなくなっていくはずだと思います。

あるのは優劣や善悪ではなく、差異だけだ。

なお、曹洞宗と臨済宗は宗派こそ違えども、べつにケンカしたり敵対しているわけでもなく、基本的にはお互いに良いところを吸収しながら切磋琢磨していこう、という姿勢のようです。

この姿勢もまた、さわやかでいいなあ、と思います。

 

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