「戻るちから」と、片足立ち

今日は朝から、なんかおかしいですね。

たぶん雨なのと、今日は娘の引っ越しだからだと思います。

気圧が低いとちょっと不安とか焦燥感が出やすくて、「なにか大事なこと」をしないといけない日も、その傾向が強いです。

 

さてそこで、きのうなんとなーく試してみた「片足立ち」です。

するとやっぱり、少し落ち着くのです。

20~30秒ほど、目を開けていてもいいので、片足立ちになってみる。

べつに手を上に上げるとかをしなくても、ただスっと片足を上げて立つだけ。

なぜかわからないけど、あの「ワーーっとなる感じ」が、マシになっていくのです。

左右交代して2回ほどやると、なんかもう普通になってくる。

 

きのうやったときに「効いた」ので、「片足立ちは効く」というプラシーボ的なことも関係しているのかもしれません。

だから確実性がどうかというと、まだわかりません。

プラシーボ的なことをバカにする風潮がありますけど、こういう神経的な症状って「気のもん」っていうのも、案外大事なんですよね。

ていうかむしろ、そこれこそが重要かもしれないです。

そもそもが「気のせい」でおかしくなっているところもあるんだから、「気のもん」をバカにすのは、自己矛盾しています。

 

とはいえ、片足立ちがまるで「気のせい」とも思えない節もあります。

というのも、片足立ちをしているときにこころの状態がどう変化していくかを眺めてみると、ぼくがいちばんしたかったことをしている感じがするからです。

ぼくが、いちばんしたかったこと。

戻りたい

 

パニック発作を経験したことがある人なら、きっと全員、思うはずです。

落ち着きたい! もとの気分に、戻りたい!

周りの人も、お医者さんも、みんな「落ち着け!大丈夫だから!」といって励ましてくれるんです。

でも本当に申し訳ないけど、うるせえっつうの。

だって、知ってるんだもんなあ。

これは大丈夫なんだ、ただの発作なんだ、10分か15分もすれば治るんだってことは、知ってる。

何千回やっとると思っとんねん。

だからべつに「勘違いで怖がっている」わけではないんですよ。

大丈夫だというコトバで勘違いが取れて、それで落ち着くとか、そんな初歩的なリペアは一切通用しないのです。

ただ単純に、こころの状態をコントロールできていない。

落ち着きたいのに、落ち着けないから、困ってるんです。

そこへ「落ち着け!」って言われても、じゃかあっしゃあ、だまれ、ってなりますよね。

 

ワーーとなって、アワワワとなって、ヒヤヒヤ、アセアセとなっているとき、「片足立ち」ができないんですよ。

できても、とても時間が短い。

でもなんとか続けようとして、重心のバランスをとろうとしていくうちに、なぜか同時に、こころのほうもバランスを取り戻してくるようなのです。

「心身不二」ということばもあります。

パニック発作時っていうのは、心の状態がかなり偏っている状態だと思うんですよね。

落ち着きとか、静止とか、集中とか、統一とか、統合とか、そいうところから完全にかけ離れて、劇的、爆発、暴動、振戦などの、動的な状態に偏っています。

もしかすると、からだのほうも、そうなっているのかもしれないです。

前傾姿勢だったり、左右のどちらかに傾いていたり、腕や首や顔や背中やムネなど、からだの上のほうの筋肉が緊張していたり。

重心が上にあると当然グラつきます。

 

からだの状態と、こころの状態がシンクロして、アワワワワと揺れ動いてしまうのではないか。

片足立ちというのは、とにかく「止まる」ことを強く意識する動きです。

椅子に座っていたり、両足で立つのでは、そこまで意識できないのです。すでに安定しているから。

片足立ちは不安定だから、右に傾いたら左に戻そうと思ったり、前に倒れそうになったら後ろに戻ろうとしたりします。

「戻るちから」

を、かなり酷使するのです。

 

戻るちから。

 

パニック発作は、つまるところ「戻れない」のです。

ふつうの状態に、どうしても戻れない。

心理的にも「このまま【死】へ向かって、戻れないのではないか」という妄想があります。

ふつうなら、万一そんな考えがアタマに浮かんでも「いやいやいや・・・そんなバカな」と、もとに戻ることができるのですが、発作時は別。

いったんそういうコワイ妄想が出たら、その妄想に完全に憑依されて「戻れない」のです。

広場恐怖や外出恐怖も、似ています。

「もう、家に戻れないのではないか」

みたいな妄想に取り憑かれる。

そんなわけは、ないのにね。

 

「戻る」訓練は、こころ方面だけでなく、からだ方面でやっても、案外効果があるのかもしれないです。

たとえば坐禅は、こころ方面での「戻る練習」だと思います。

なにか妄想や思念が出たとしても、それにとらわれないようにして、ただ座っていること、あるいはただ呼吸をしているという「事実」「いま」に「戻る」練習。

片足立ちの場合は、からだ方面の「軸に戻る」練習、ともいえるのかもしれません。

 

戻れないから、困ってる。

じゃあ、戻る練習をすればいいのではないか?

「戻るパワー」を、強化すればいいのではないか?

 

戻れないのは、まず第一に、遠くに離れてしまっているからなんですよね。

心の場合は、意識が、カラダの場合は、重心が。

そして第二に、「戻る場所を見失っている」。

ほんらいの自分のココロがどんな状態だったか、見失った。

もともとの自分の座標が、わからなくなってしまった。

坐禅も、片足立ちも、「いま・ここ」すなわち、起点のホーム座標【 0, 0, 0, 0 】を発見し、そこへ何度でも「戻る」練習でもあります。

歪んでも、傾いても、ズレても、離れていっても、かまわないんですよね。

「戻る」ちからさえ、あれば。

 

坐禅と一緒に「片足立ち」もしばらく、試してみようと思います。

本来の自分自身に戻るチカラを失った時、こころは寂しくなって大暴れをしはじめるのかもしれません。

 

 

  • ぽぽんた より:

    >何千回

    ほんと つらいね って
    なんだか
    しみじみ しました。

    どれほど 言葉を 尽くしても。
    何度 説明 しても。
    訴えても。
    すくなくとも 周囲の 誰にも
    わかってはもらえないこと。
    どうしようもないほどの
    まさに
    居ても 立っても いられなくなるような
    絶望的な 孤独。
    その 感覚。
    よく 耐えて 来た よ って。

     “ずっと ひとり だが
    きっと ひとり では ない。”

    かつて
    わたしの ともだち が 
    そんなふうに 言いました。

    寒さが 増す
    これからの 季節。

    不安 に
    ならないように。

    あたたかく。

    ここ に。

    いられますように。
    (_ _)

    • TERA TERA より:

      いつもあたたかいコメントありがとうございます。

      絶望的な孤独感、まさに、それですね。

      愛する人がぴったりそばにいたとしても感じなければならない、孤独感。

      でもまあ、最近はこれも「修行」だと思うようにしています。

      経験したくても経験できないようなことを、何千回もやってる。

      いいこいとがあっても、つらいことがあっても、絶望しても、歓喜しても、いまはいまで、ここはここで、ぼくはぼく。

      パニック障害のおかげで、禅が言うことも、すこしだけわかるような気もします。

      せっかく生まれてきたのですから、良し悪し関係なく、経験は多いほうがいいですね。

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