掃除は「汚れと親しむ」ことなのかも

掃除を毎日するようになって1ヶ月半、ようやく我が家もキレイになってきました。

寝室にもホコリはほとんどありません。

何よりも、ここ2ヶ月ほどつづいていた息苦しいのがとれて、呼吸がとてもラクになりました。

あの異様なソワソワ、イライラや、パニック発作なども非常に落ち着いています。

やはり、一種のアレルギーだったんだと思います。

 

そんな感じなので「掃除はとってもいいことだ!」と、掃除原理主義に傾きそうになります。

しかし、ふと思ったのです。

「なぜ、掃除をするのか」

掃除の目的は、なんだろうか。

 

そんなの、清潔にすることに決まってんじゃん!

清潔な空間にして、アレルギーとかが出ないようにしたり、病気を予防するためじゃんか!

最初は、そう思いました。

でも、ほんとうにそうか?

 

「清潔にしすぎるとかえってアレルギーがよく出るようになったり、病気になる確率が高くなる」

ということもあるようなのです。

クリーンルームで育てられた赤ちゃんや、清潔すぎる環境で育った子どもがひどいアレルギーになりやすい、というのはよく知られることです。

必ずしも「清潔な空間にいること」が病気の予防になるとは限らないようなのです。

紡績工場で働き、毎日綿ぼこりを吸っている人は肺がんになる確率が低いという報告もあります。

 

清潔な空間にいると、かえって抵抗力が下がり、病弱になる。

これはおそらく、正しいことだと思います。

ではなぜ、掃除をするのか?

 

「不潔は病気のもとだから、いつも掃除をしてキレイにしておきなさい。」

「清潔にしすぎると、かえって病気になりますよ。」

 

……一見すると、矛盾するような気もします。

もしかして「程度」の問題なのでは?

清潔は大事だが、行き過ぎると問題なわけだから、「ある程度のところ」でやめておけばいいのでは?

しかし、ではその「ある程度」とは、どのあたりなのでしょうか。

人によってちがうから、これを可視化することは難しいのではないか……。

 

こんなふうに考えだすと、堂々巡りになります。

そこで忽然と「あることば」が浮かんだのであります。

 

汝の敵を愛せよ。

 

潔癖症のひとというのは、汚れを「恐れて」「憎んで」います。

だから汚れやバイキンを「殲滅する」ことを意図しています。

逆らう、あらがう、攻撃する、逃げる、排除する。

そういった気持で、掃除をしています。

そんな気持を持っているから、掃除のゴールが「清潔な空間」になってしまうのだと思います。

そうなると、かんたんに「やりすぎ」にいってしまう。

化学薬品や機械を使ってまで除菌しようと考え始め、手袋やゴーグル、マスクという完全防備で掃除にあたるようになる。

そんなことをして完成した「清潔空間」は、おそらく住人の抵抗力を下げていく、病に弱い家になっていくかもしれないです。

 

ゴールに「清潔」を設定するから、おかしくなるのかもしれません。

禅では、坐禅で悟りを求めるのではなく、坐禅は坐禅そのものが目的でなければならない、といいます。

ゴールを設定し、そこへ向かう坐禅は野狐禅といって、禁止されているほどです。

同様に、掃除も「清潔というゴール」を目指すのではなく、掃除は掃除そのものが目的となるべきなのかもしれません。

つまり、汚れや菌と敵対するのではなく、汚れや菌を「愛する」。

掃除は、汚れや菌と「あそぶ」時間だと思えば良いのかもしれません。

汚れや菌を殲滅する軍事行動ではなく、それらと「おにごっこ」をしてあそぶ時間である。

 

この視点を持つと、すべての矛盾が氷解するのです。

掃除をするということは、空間は結果的にキレイになりますが、そのかわりに全身でホコリをまとい、吸い、触るということです。

汚れから逃げていては掃除なんかできないのです。

医学的にも、そのように日常的に多くの菌に接することで、からだの内外にバランスが取れたマイクロバイオームが形成されて、悪玉菌への抵抗力が増加するといわれています。

だからトイレ掃除なども、手袋やマスクなどせず、素手の素顔のままやるほうが望ましい、といわれています。

掃除は、菌を空間から排除するいっぽうで、体内に「取り込む」作業でもあったわけです。

だからいちばんいけないのは、だれかに掃除をしてもらって、じぶんだけのうのうと清潔な空間に居座りつづけること。

そんなことをしたら、どんどんどんどん、抵抗力は弱くなっていくはずです。

「掃除をした人」は、どんどん強くなっていくのに……。

 

汚れや菌を、排除するのではなく、愛する、親しむ。

この座標にあれば、絶対に極端に向かうことはないと思います。

そもそもの話として、家の汚れは、じぶんや家族が出したものです。

それを毛嫌いするというのは、自分自身や家族を毛嫌いしているのとおなじ。

自分自身や家族を愛せていないから、じぶん由来の汚れも愛せないのかもしれません。

 

そうなってくると、「毎日掃除しないと、気になって眠れない!」などという、病的な状態にはならずにすみそうです。

数日放置すれば、「汚れくん」や「細菌ちゃん」「ホコリー」などが、かってに増えてくれるのです。

掃除するときは、彼らとせいいっぱい、鬼ごっこをして遊ぶ。

化学薬品や機械を使うなんて、反則です。

彼らは着の身着のままでやっているんだから、ぼくも同じようにしないと、フェアじゃないです。

汚れは、ともだち。

細菌は、ともだち。

ほこりは、ともだち。

いくら完璧に追い詰めたって、だいじょうぶです。

あしたになれば、なにごともなかったかのように、にこにこして「あーそーぼー」といって、必ず遊びにきてくれます。

そうやってまいにち、汚れや菌たちとあそぶことを繰り返していけば、からだのほうも、いつしか汚れや菌に強くなっていくのかもしれません。

 

掃除は、掃除そのものが、目的である。

坐禅が、坐禅そのものを目的としているように。

掃除をしたあとの「結果」を欲しがるのではなく、掃除をしている「いま」こそをたのしむ。

それがただしい掃除なのだろう、と思いました。

 

ふつうに考えて、アルコールや化学薬品、機械などをつかって掃除しないといけないだなんて、病院か伝染病が蔓延したときぐらいです。

ふだんからそんなことをしていたら、人間がダメになっていくかもしれません。

人間は、病んで、汚れて、傷ついてナンボじゃ。

人間は、汚れるほどに、つよくなる。

掃除は「わたしが汚れる」からこそ、良いことなのかもしれません。

 

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