思考を誘導すること

うーん、やっぱりそうだなあ。

さっき、とつぜんパニック発作に「なりかけた」んですよね。

原因は、はっきりしています。

 

仕事を中断して、2階の仕事場から1階に降りていった。

庭にちょっとした用事があって、帰り際に飼い犬のアタマをナデナデして家に入った瞬間に、胸がドキドキ! ってなったんですね。

このドキドキは、動悸とはすこし違っていて、胸の奥がヒクヒクってなる感じです。

で、なんかあたまがフラ〜ってなる感じもあるんですね。

ポイントは「胸の奥がヒクヒクした」のではなく「したような感じ」。

「あたまがフラ〜ってなった」のではなくて「フラ〜ってなったような感じ」なのです。

つまり、ほんとうにそうなったのではなくて、そんな感じがしただけ。

実際には、背中の筋肉がヒクヒクって痙攣しただけのようなのです。

 

なぜ、痙攣したのか。

おそらく、今日はそこそこ仕事が忙しくて、長時間ずっと座っていたからだと思います。

うっかり椅子のチルトを前傾にせず、ふつうの状態で仕事をしてました。

背中が丸くなっている状態で、長時間椅子に座っていると、高確率で背中の筋肉がヒクヒクっ! てなるみたいなんですよね。

たぶん、筋肉疲労なんだと思います。

なぜそういえるかというと、マジで24時間心電図をとったことがあるからです。

心電図にはまったく異常はありませんでした。

 

しかし場所が場所だけに、一瞬「心臓かな?」っていう不安がよぎるんですよね。

この思い込みというか、反射的な思考によって、「ふらっとした感じ」が出るんだと思います。

実際には片足立ちもできるし、ふつうに階段も登れて、まっすぐに歩けるから、ほんとうにめまいがしているわけではないのです。

 

そしてもうひとつ。

今回の「やっぱりそうか」はこれなんですけど、体温が下がっていたんですね。

「胸ヒク」が起きてすぐ、速攻で体温を測りました。

(こういうふうに、おもむろに体温計を出してきて冷静に体温を測るなんていうことができるのなら、やっぱり心臓発作とかじゃないですよね。もしかしたらパニック発作ですらないのかもしれない)

そしたら36.6℃。

ふだんよりも、けっこう低いです。

僕は通常、36.8〜37.0ぐらいが平熱です。

これは最近気がついたのですが、パニック発作に至る「あの感覚」は、どうやら体温の急上昇の要請のようなのです。

からだが、急激に体温を急上昇させようとしている。

そのときに、あのわなわな感、そわそわ感、恐慌感がどばっと出る。

 

そこで体温上昇を助けること——たとえばたくさん歩く、手をぶるぶる震わせる、腕を屈伸させる、足の屈伸をする、貧乏ゆすりをする、全身を震わせるなど——をすると、体温が上がってきます。

そして体温が37.0℃に到達すると、「あの感じ」がすーっと消える。

体温が平熱に戻ると、あの妙な不安感や焦燥感が消えるのです。

 

加齢なのか、運動不足なのか、その両方なのか、それはさておき、ようするに体温がたまにぐっと下がることがあるんですね。

お酒をやめていらい皮下脂肪が減っているのも、関係あるかもしれません。

あるいは最近は掃除を念入りにしてアレルギー反応も減少しているので、炎症がなくなったぶん、体温低下曲線が一時的にきつくなっている、というのもあるかもしれません。

いずれにせよ、この低体温を解消しようという反応のひとつが、あのパニック発作に至る不快感のようなのですね。

意外なことで、体温が関係していたようなのです。

 

体温を上げれば、収まる。

これを知っていらい、あまり怖くなくなっているのです。

とはいえ、全く怖くないわけではありません。

長年やってきているので、そうそうスパっと切り替えができるわけでもない。

どうしても、けっこうな不安感や恐怖感が出てしまうこともあります。

 

でもこの思考は、以前に比べればずいぶん「すなお」になってきました。

だからいわゆる発作には至りにくくなっています。

以前は、このような反応が出たら、もう「止まらなかった」のです。

心臓が止まるんじゃないか、死んじゃうんじゃないか、救急車を呼ばないといけないんじゃないか。

そんな思考にあたまが占拠されてしまって、もうにっちもさっちもいかなくなってしまっていました。

 

体温というトリガーを知ったからということ以外にも、やはり坐禅の影響もあるかもしれません。

毎晩たった20分弱ですが、毎日坐禅をするようになって今で70日を超えました。

坐禅中は、どうしたってやっぱり、いろんな妄想や思考が出てきます。

そういうのが出てきたとき、べつに「アカン!」とか「考えるな!」とかコワイことを思うのではなく、出てきた思考を、「そっと枠外に誘導する」ということをします。

まるでゾーキンで曇ったガラスをそっと拭くように、サササと払う。

そういうことを、坐禅中には何回も何回も何回も何回もやるのです。

もしかしたら、この「思考の枠外誘導」の練習の成果が、すこし出てきているのかもしれません。

「心臓が止まるのではないか」

「呼吸が止まるのではないか」

そんな思考が出てきた時、それを坐禅の要領で、「そっと枠外に誘導する」ことが、すこしだけですけど、できるようになっているようなのです。

もちろん、坐禅中はそんなに強い思念はありませんから、誘導はかんたんです。

すっと呼吸のほうに意識を向き直せばすむ。

しかしパニック発作の恐怖というのは、もっともっと強烈で、強固な思念です。

だからそうそうかんたんには、枠外追放ができません。

修行が足らんといえばそうなのですが、まあ、難しいよねえ。

でも以前に比べたら「誘導に成功する」ということが、増えているのです。

だって、やっていることじたいは、同じですからね。

相手がデカいか小さいかだけの話で、原理は同じ。

だから集中すれば、すんなり行くこともあります。

 

そういうことなんだろうな、と思ったんですよね。

ぼくは以前、パニック発作で起きる恐怖というのは、こんなものはもうどうしようもない、と思っていました。

死ぬ恐怖に打ち勝てる方法なんかない、と。

確かにそうなんですが、でもこの恐怖は、たしかに恐怖の感情なんだけど、「雑念」ともいえるのです。

出ている症状じたいはさておき、それを怖いとかヤバいとか思うのは、その症状に対する「評価」に過ぎないのですよね。

それにそもそも、パニック発作で死ぬことはマジで絶対にないのです。

この想念に、実体はなく、必然性もない。

そんな「あやふや」なものは、感覚だとか想いだとか反応だとか記憶惹起だとか、そんなえらそうな名前をつけなくても「雑念」でいいと思うのです。

雑念を消すとか殺すとかぶっ飛ばすとかじゃなくて、「そっと、お外にご案内する」っていう。

 

まあ、なかなかうまいこといきませんけどね。

でも実感としては、そのうち器用にできるようになるんじゃないかな、とは思っています。

ぼくが相手にしているのは肉体的で具体的な不具合ではなく、たんなる「思考」なのですからね。

けむりのような、根っこのない、ただよっているだけの、ただのこころの反射にすぎない。

そんなもんはいずれヒョヒョイと払いのけられるようになる——-と、いいですね。

 

可能性はあるぞ。

 

 

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