否定は願いになる

くそう!

くそっ! くそっ! くそっ!

 

ああもう、いったいなんなんだろうなあ。

 

ここ3ヶ月ほど毎日掃除をしていて、坐禅は70日目を突破しました。

そのおかげか、いわゆるパニック発作の回数がかなり減って、わけのわからない、異様などすぐろい怒りというのもなくなっていっていました。

なのでハウスダストのアレルギー反応もトリガーになっていたのかな、と考えたりしていました。

 

掃除も坐禅も続けているのに、どういうわけか昨日の夕方あたりからまたあの違和感が出だしたのですよね。

きっかけは、何かの拍子に心臓のあたりがヒクヒク! ってなったような感じがしたことでした。

でもこのヒクヒクは心臓由来のものではなく、背中などの筋肉の痙攣だということは知っています。

またそれにともなうふらつきや息ぐるしさも気の所為であることもわかっています。

胸がヒクヒクして、あたまもふらふらしているのに、それを無視こいて掃除で家の中を動き回っても、結局なんにもないからです。

ほんとうに循環器系がおかしかったら、もうすでにぶっ倒れていると思う。

 

仕事をしていると、急に耳の奥がざわざわしてきて、キーンと耳鳴りがしたり。

背中とか胸の筋肉がヒクヒクっとなって、息苦しくなったり。

ややこしいのが、今日の仕事はどちらかというと「やりたい」ことで、イヤイヤやっているわけではなかったのです。

そう、ぼくは仕事そのものは好きなのです。

なのに、こういったブレーキがかかってしまうので、むっちゃ腹立つ。

なんやねん!

なにを、ぐずぐずいうとるねんっ!

 

だから、今年の3月ぐらいに出ていたイライラとは、明らかに種類がちがうのです。

あのころは、もっともっとどす黒かったし、何より原因がまったく不明でした。

いったい何に怒っているのか、どうして怒りが収まらないのか、わけがわかりませんでした。

でも今回は、がっつり原因がわかっています。

胸のヒクヒクとか、耳鳴りとか、そういう不具合。

そっちにピシーっと矛先が向いています。

 

さて、だからある意味、良くなってきているのかなとは思いました。

以前は、こういった「戦う気力」さえわかなかったのです。

一旦不具合が出てしまうと気持ち的には焦っているものの、どんよりとした気分でした。

逃げることばかり考えて、収まることを祈ってばかりいました。

そして焦っているので、あたまもあんまり働かないというのもありました。

 

今回はちがう。

いつものように、「いろいろ努力したのに、またダメだったのか・・・グスン」などと、ガッカリしないのです。

むしろまったく逆で、「てめえがそうくるのなら、逆にまだまだ続けてやる!」っていう決心が、かえって強くなるんですよね。

おまえみたいなしょうもないものに、負けるわけねえだろうがこのクソやろうめ。

 

それはさておき、で、結局なんなんだろうなあ。

ハウスダスト的なモノに対する反応かも、と思っていたけど、関係ないのかなあ。

最近はもうホコリやカビはほとんどないのですよね。

だからそれに対するアレルギー反応というのは、違うんじゃないか。

季節の変わり目につき若干風邪っぽいというのはありますが、こんなものは今に始まったことじゃない。

すげえよく眠っているし、メシもうまいし、快便です。

ストレスらしいストレスも、とくにない。

 

いまのところ、まったく思い当たらないのですよねえ。

でも自分のこころの動きを観察してみたら「もしかして」というのはあります。

 

治す努力をする → 良くなっていく → 突如ぶりかえす

 

このストーリーは、パニック障害では「あるある」です。

ぼくは、これを何百回繰り返したんだろう。

何百回も繰り返したので、

「またどうせ、ぶり返すんじゃないか」

そんな「思い」が、こびりついているようなのですね。

 

この思いは、「願い」なのではないか、と感じたのです。

悪くなることを、願っている。

 

悪くなることを願うだなんて、そんなわけねえだろ!

だれだって、いいふうになりたいって願うに決まってるだろ!

……って思うけど、ぼくは人間にはそういう「闇へのベクトルの強化機構」があるように思うのです。

たとえば、どういうわけかクソみたいな男とばっかり付き合ってしまう、という人がいます。

クソみたいな男が好きなのではないし、苦労したいのでもない。

でもなぜか、そっちに行ってしまう。

 

「強い疑念」は「つよい願い」と同じなのだ、と気がついたのです。

そっちに行ったらまずい、こうなったらいやだ。

そういう気持ちが強すぎると、それはある時点からなぜか「そっちに行きたい」「こうなりたい」っていう「願い」に変わってしまうのですね。

おそらくこれは「深層心理は否定を理解できない」ということに関係していると思います。

「そっちには行きたくない」の「ない」は、原始脳というか、こころの奥の奥にある思考中枢に到達したときには、いつもポロっととれてしまう。

だから深層心理的には「そうなりたくない」は「そうなりたい」と、まったく等価の意味になるのだと思うのです。

 

なんでやねん、NOがなんで、YESになるねん!

と思うけど、そもそも「生きる」ということ自体が純粋な「肯定」なんですよね。

生命は、肯定だけで、できている。

生命には、装飾がない。

だから生命には「逆の言い回し」というのは通用しないのだと思います。

勝手に全部、肯定として解釈してしまう。

 

イヌもそうなんですよね。

基本的には「NO」「だめ」では、動いてくれないないのです。

エサをくれるとか、褒めてくれるとか、そんな肯定的な利益があるからこそ、イヌは芸を覚える。

芸を教える時、

「そうそう!」

「それ!」

「よし」

は、イヌは理解しているようなんですね。

でも、

「ちがうだろ!」

「そうじゃない!」

「だめ!」

は、たぶんわかってないんだな。

キョトーンとしている。

飼い主がだめだ、だめだ、ばっかり言って叱って芸を教えようとしていたら、結局なんにも覚えずに、萎縮して、混乱して、ばかで、凶暴で臆病なイヌになっていく。

ほめられて育ったイヌは、かしこくなって、よくわらう。

 

人間の根っこは、イヌみたいなもんなんだと思うんですよね。

言語というあとづけの、ほんとうはたいしたチカラのないショボい機能に依存しすぎているから、じぶんの中心部にも言語が通用すると勘違いしはじめたんだ。

通じるかいや、あほんだらが。

こころはイヌみてえなもんなんだから、「努力しても、またいつものように失敗するかもしれないが、それだけは避けたいのだ」なんていう、そんな文字数の多い、ややこしい、おしゃべりなことは通じない。

よけいなものは全部こそぎ落とされて、中心部には「失敗する」あるいは「避ける」だけが、伝わってしまうんだよなあ。

 

ぼくの「思い」に、よけいなものが多すぎるのかもしれません。

「今回だけは、間違った結果には行きたくないんだ!」

やかましいわ。

シンプルにいこうか。

 

「治る!」

 

 

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