「何のために生きるか」よりも「何のためなら死ねるか」

むかしのお侍さんや貴族などが「お家のために死ぬ」とか「名誉のために死ぬ」とかいうのを、ぼくはバカにしていたところがありました。

そんなもののために大切ないのちを放棄してしまうなんて、ばかじゃなかろうか、と。

 

でも最近、思うことがあります。

最近とてもからだが弱くなって、パニック発作だの自律神経失調症だのを患い、毎日あれが痛いここがわるいと言っている原因は、もしかしたら「いのちを守ろうとしている」からではないか、と。

 

生まれたときから虚弱児で、学校もろくすっぽ行けないほどでした。

原因不明の熱をしょっちゅう出し、喘息や蓄膿、腹痛、蕁麻疹などのアレルギーに悩まされ、奇病で入院を繰り返していて、気持ちもアタマも弱かった。

おまえはいつ死んでもおかしくないんだ、そんなことを医者や両親に言われたりもしていました。

そんな自分に嫌気がさしたのと、周囲に迷惑ばかりかけていることを情けなく思い、ぼくは柔道部の門を叩きました。

「からだを鍛えれば、治るのではないか」そんな期待があったわけではないのです。

このまま生きていってもどうせ長生きはできそうにない。

ならば一回死んでやろうじゃねえか馬鹿野郎、という気持ちでした。

部活の練習で死んでしまうぐらいの虚弱なカラダならば、どのみちまともに生きていけないだろうから、一回死ぬ気でやったるんじゃ。

 

死から逃げることをやめて、むしろ体当たりをカマしてやったわけです。

そうすると不思議なことで、あらゆる不具合が全部ふっとんでしまいました。

お医者さんもしきりに首をかしげていました。

「そんなわけは、ないんだけどなあ」

 

最近でこそ、アレルギーは清潔すぎる環境が良くないのだとか、運動を避けることがかえって良くないということを言うようになりました。

しかしぼくは、この説には足りないところがあると思う。

本人の「気持ち」のところが、完全に欠落しているからです。

多様な細菌のマイクロバイオームであるとか、運動による血行改善であるとか、そういう物質的なことが原因だと科学者はいうけれど、もしかしたらそれは「結果」にすぎないのではないか。

不潔な環境をゆるし、受け入れ、体調悪化の危険性を犯してまで運動を行う。

なにをしたか、ということよりも「それを実行するときに、本人がどういう気持になっていたか」ということが、じつはものすごく大事なんじゃないか、と。

 

じぶんは体が弱いと信じ、じぶんの強さを信じられず、か弱きわが生命を大事に守らねばならないと考えていたら、不潔な環境は許せないし、激しい運動も受け入れられないです。

しかしそれを押してまでやろう、と思ったということは、バイオームや運動量の変化ということのまえに「こころが変わった」ということです。

ここにこそ、一大事があるのではないか。

 

じぶんのいのちを、捨ててしまう覚悟が必要なこともあるんだと思います。

具合がわるかったら、中止しよう。

無理はしないでおこう。

そんなことを考えていたら、いずれはじぶんの体調に負けて、継続できなくなってしまう。

結局、たいして何も変化しなかった、ということになってしまう。

なぜなにも変化しないか、それは「こころの変容」が追いついていないからではないのか。

わが弱き肉体と生命を、ほそぼそと守り通したいという執着から、離れることができていない。

 

武士道とは、死ぬことと見つけたり。

宮本武蔵のことばですが、これは真意を伝えているのかもしれません。

仏教でも、執着を離れろというアドバイスがあります。

その執着の最たるものが「生きたい」という気持ちです。

これから離れるということをしないと、変化しない部分もあるのかもしれません。

 

そんなこと、できるわけない。

まずはそう思うけど、このときに昔のひとたちの「家のために死ぬ」「名誉のために死ぬ」という方向性を思い出すと、案外そうでもないのではないか、と思ったのです。

ぼくたちはたまに「何のために生きるのか」ということを問います。

しかし「何のために死ぬのか」ということについては、あまり意識しないです。

 

そんな方向性があってもいいんじゃないか、と思う。

名誉のために死ぬなんてバカがすることだ、そういう意見は多いかもしれないけれど、それでもいいじゃないか。

ほんとうに名誉に命を賭けることができるのなら、何に対しても命が賭けられないヤツよりはよっぽどマシです。

きっとそのひとの命は、輝いていることだろうと思う。

何に対しても命を賭けることができず、守ること一辺倒で過していると、そのうち命はハリも輝きを失うのかもしれないです。

押し入れにしまいこんだ服に、カビが生えてしまうように。

 

ヨーロッパでも「メメント・モリ」という言葉があります。

死を思え、ということわざです。

これにはいろいろな解釈があるけれど、おそらくは「何のために死ぬか」を見つけろ、ということなのかもしれませんね。

おそらくは、なんでもいいんだろうな、と思います。

仕事でも、家族でも、恋愛でも、趣味でも、人助けでも、なんでもいいから「そのために死ねる」というのは、すばらしいことだと思う。

 

とは、いうものの。

なかなか、見つからないんですよねー。

なんのために、死ねるか。

 

なかなか見つからないのはたぶん、「価値の高いものでないといのちを賭けるに値しない」と思っているからかもしれませんね。

せっかくのわが生命を賭けるのならば、国家や人類などといった壮大なものに対してでないと、採算があわない、とでもいうような。

しかし残念ながら、じぶんには国家人類を背負えるほどの力量がない。

このダブルバインドにて、なんにも見つからないのだと思います。

命を賭けるに値するものが見つからないというのは、それだけ傲慢であるということです。

 

庭の草むしりに命をかけたって、べつにいいんですよね。

ケチるほどたいした命でもねんだ。

たいしたこともないことに、たいそうな付加価値をつけるから、怖くなってしまうんですよね。

この世界では、1秒に2.4人生まれて、1.8秒にひとり死んでいってるんだそうです。

死も誕生も、ただの日常のヒトコマ。

さて、では、命がけでハナクソでもほじるかな。

 

 

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