「意味」よりも大切なこと

「それに意味や意義があるのか」ということに、ずっと囚われていたように思います。

じぶんがいましている行動に、ほんとうに意味や意義があるのかどうか。

意味・意義のないことは無駄なことだから、やらないほうがいいのではないか、というような。

 

一見まっとうな考えのように見えるけど、じつはこの考え方こそが自由を奪う考え方かもしれないな、と気がついたのですよね。

意味ねえじゃん、みたいなことをいちばんギャンギャン言うのは中学生ぐらいのガキだ。

勉強なんかしたって意味ねえじゃん、三角関数なんか将来もきっと使わないんだから覚えたって意味ねえじゃん、暗算なんか計算機あるんだからいらねえじゃん、みたいな。

アホかワレ。

そーゆーことでは、ないんですよね。

 

環境に対する意識にも、いまだのこの「中坊の理屈」がまかり通っているところがあります。

オレ一人が環境に対する意識を持ったって、みんながやってないのなら、意味ないじゃん。

環境を守ることが本当に役立つかどうか立証されたわけでもないのに、それを必死でやるのは意味ないじゃん、ばかみたいじゃん、みたいな。

たしかにそうなんですよね。

この世の80%は仮説でできているらしいから、環境保護の仮説だってそれがほんとうに正しいのかどうかなんてだれにもわからない。

しかし、わからないから、やらないんだ、っていうのはどうなのか。

意味がないから、やらないんだっていうのは、どうなのか。

 

ものごとに過度な「意味」「意義」を期待した瞬間に、「抑止」が生じるんですよね。

このことには意味がない、だからやらない、っていう判断は、じつは「じゃあ何をすればよいのか」という答えを生んでくれることは一切ない。

結果、何をしていいのかわからなくなって、ふわふわしてしまう。

 

掃除や坐禅もそうなんですよね。

毎日掃除をすることに、ほんとうに疫学的な意味があるのか。

毎日坐禅をすることに、ほんとうに医学的な意味があるのか。

そういうことを考えだしたら、もう「やらない」っていう選択肢しか残らなくなるんですよね。

だって、マジで意味ねんだもの。

毎日掃除するのと、1週間に1回掃除をするのとにいかほどの差異があるかというと、たぶん大してないと思う。

坐禅をしてなくても元気な人はいっぱいいるのだから、医学的な意味もあまりないかもしれない。

 

でも、やるのですよね。

意味や意義がなくても、やるのです。

掃除は、毎日するものだから、やる。

坐禅は、毎日するものだから、やる。

家事は、毎日するものだから、やる。

環境保護は、やるべきことだから、やる。

勉強は、するものだから、やる。

仕事は、するものだから、やる。

意味があろうが、なかろうが、やる。

やるのです。

 

そうすると「迷い」が減っていくんですよね。

それに意味があるかないかという議論やディベートは迷いを生み、行動の抑止を生む。

でも、やるべきことは、意味があろうがなかろうがやるという姿勢は、迷いを減らし、行動の抑止を解除してくれるのでした。

 

いま、じぶんがしようとしていることを、いちい思考でサンドイッチしてブレーキをかける。

これが増えると、神経症やノイローゼになっていくような気がするのです。

行動の抑止には外的要因と内的要因がある。

その比率は人それぞれだけど、結局直接的に関わってくるのはほとんどの場合「内的要因」なんですよね。

テロリストに羽交い締めにされて誘拐されたというのなら、これは100%外的要因による行動の抑止だけど、そんなことはまあ、あまりないです。

いっぽう先生にむちゃくちゃ怒られて萎縮してしまい、うまくしゃべれなくなった、とかいうのは、先生の叱責も原因のひとつではあるが、結局「しゃべるのを抑止している」のは、直接的には自分自身にほかなりません。

先生に、口にガムテープを貼られたわけではない。

「先の原因」が外的な要因であったとしても、「直の原因」は結局、自分自身の中にある。

行動を自ら抑止するという内的なベクトルこそが、直接の原因である。

 

意味、意義ということにこだわると、抑止が増えるんですよね。

そんなことはどうだっていいから、やることは、やるのである。

意味や意義にこだわらず、すべきことは、じぶんの気持ちや考えさえも枠の外に置いて、実行する。

そのトレーニングというか習慣を続けていくことで、いずれは「こころのブレーキ」も緩んでくるような気がするのです。

つまり、「要因から自由になる」。

 

あれが、こうしたから、こうなった。

そういう演繹的なストーリーに執着すると、ものごとを階段式に認識するようになってしまって、枠からはみ出した判断ができなくなってしまう。

これを「大人になる」ともいうけれど、これが強くなりすぎたとき、きっと心は病むのだと思います。

理屈や利益という単純演算方式だけで生きていけるほど世界は甘くはないから、いずれ大きな齟齬がうまれる。

 

意味や意義なんぞ、くそくらえじゃ。

それぐらいの気持ちで、ただただ愚直に日々を生きていくというのも、アリだと思うようになりました。

意味があろうがなかろうが、やるべきこと、やると決めたことは、無感動にただ続けていく。

究極的なところまで行ってしまえば、人間というか、人類や宇宙が存在していることにさえもたいして意味も意義もない。

意味や意義というのはそれを認識する主体があってはじめて成り立つものだから、その主体が永遠不変のものでないかぎり、死から逃れられない限り、意味や意義には期間限定の存在価値しかありえない。

つまり、一晩だけの浮気相手みたいなもの、あるいは夢のようなものだ。

もとも本質的には意義も意味もない世界において、なーにをぐちゃぐちゃと、意味意味意義意義いうとるねんな。

うるさいねん。

そんなしょうもないことよりも、オモロいことはいっぱいあるんですよね。

目の前に、この瞬間に。

 

 

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