からだはいつも、こころの味方

パニック障害について、その原因をぼくは「からだのせい」や「神経のせい」、「ストレスのせい」にしてきました。

また最近は気管支の調子がわるいことについて、カビやホコリのせい、ぼくの過敏な神経のせい、弱い粘膜のせい、運動不足のせい、トシのせい、としてきました。

 

しかしふと、この方向性には「からだと敵対している」という根源的な姿勢がある、ということに気がつきました。

からだや神経の調子がわるいせいで、わたしは迷惑を被っている。

だからからだや神経をなおし、調子を整えなければならないのだ、と。

 

案外、逆なのではないか。

というのも、ぼくたち人間は、生きています。

生きていくということは、さまざまな危険や妨害から身を守る、ということでもあります。

だから、からだには「防衛機構」が最初から備わっている。

 

からだが「わたし」という存在が生きていくことに対して、それを妨害するわけがないのではないか、と思ったのです。

わたしのからだは、わたしという存在の、第一の味方である。

それが逆に妨害行為をはたらくなどということが、原理的に起こりうるのだろうか。

 

花粉症は、日本人に突出して発症率が高いのだそうです。

その原因としては「衛生仮説」というのがあり、つまり清潔すぎる環境に問題があるのではないか、とする考え方もあります。

これはなんとなく「そうかも・・・」とは思います。

たしかに日本人は清潔好きが多いですし、たまにものすごい不潔なひともいますが、そういうひとは案外花粉症ではなかったりします。

だから清潔ということと花粉症には、なにか関係があるような気がしないでもないです。

 

このことを衛生という物質側面からではなく「感情」から見てみると、面白いかもしれません。

なぜ清潔を好むのか、ということ。

清潔が好き、ということは、不潔がきらい、ということかもしれないのです。

つまりわりと強力な「拒否の感情」を持っている可能性がある。

一説によると、花粉症になるひとは人や食べのものに対する好き嫌いが激しい、という話もあります。

 

清潔にする人には、ざくっと大きく分けて2種類あります。

・不潔を嫌い、恐怖し、拒否するタイプ

・ただの習慣や必要条件であるタイプ

ぼくは以前、後者でした。

汚いのが嫌いというわけではなくて、生まれたときから身辺を清潔にする習慣を教え込まれていたので、とくになんの感情もなくそうしていました。

しかし昨年あたりからは、前者に若干足を踏み入れたところがあります。

じぶんの不具合はハウスダストのせいなのではないか、そんな観念が生まれたりして、ホコリやカビなどを毛嫌いするようになっていきました。

そうすると、時を同じくして、気管支や肺などの具合がおかしくなっていったのでした。

 

「そう思ったから、そうなった」

というのも、あるかもしれません。

しかしではなぜ「そう思ったら、そうなった」のか?

 

ここに「からだは、こころの味方である」という可能性を考えてみると、案外腑に落ちるのです。

ぼくの「こころ」が、まずカビやホコリを「拒否」した。

そうすると、こころの最大の味方である「ぼくのからだ」は、それを「応援」しはじめたのではないか。

ちょっとした異物でも、排除反応をするようになった。

 

アレルギー反応にも案外このようなメカニズムがあるのかもしれないな、と思ったのです。

外的ななにかについて、それは必ずしもアレルゲンに対してではなく、人や、出来事や、考え方など、自分以外からもらたされる刺激に対して何かしら強い「拒否」の感情を持っている。

すると「からだ」のほうも、それを「応援」して、神経を過敏にさせてくれるのではないか。

ほんの少しの危険にさえも反応するようにしてくれて、「こころが満足するように」段取りをしてくれるのではないか、という。

 

先日けっこうなトラブルがありまして、もしかしたら人生でこれほど焦ったことはない、っていうぐらいだったかもしれません。

それが終わったあと、ふしぎなことに気がついたのです。

調子の悪かった気管支や、息ぐるしさが、消えている。

ぼくのこころがものすごい恐慌状態になって「それどころではなくなった」のかもしれません。

からだが、ぼくのこころにある「拒否」を応援することよりも、「いまやること」にパワーを回してくれたのかもしれないです。

落ち着いて、一夜明けると、また気管支の過敏は復活していました。

また「拒否」のほうに、パワーを回してくれたのではないか。

 

ぼくのなかに、なんらかの強い「拒否」の感情があるのかもしれないです。

かもしれない、というか、最近は自覚があります。

最初に書いたように、ぼくはじぶんのパニック障害について「わたしのからだや神経に問題がある」と定義してきました。

あるいはまた、なんらかの外的要因に影響されている、とも考えました。

食べるものや、空気、水、ホコリやカビなど。

骨格の歪みや筋肉、血流などについても、「こころ」から見れば外的要因です。

もし「拒否の感情」そのものが、原因だったとしたら?

ぼくは「ぼくの身体を拒否」し、「ぼくを取り巻く環境を拒否」していた。

だからいつまでも、引きずるのではないのか。

問題はこころの外部になく、自分自身のこころの「定義パターン」であったとしたら、それはもう逃げられないのです。

改善するもなにも、拒否の感情「それ・そのもの」じたいが原因であったとしたら、また身体はぼくのこころの判断を全力で応援してくれているとすれば、そうなるに決まっている。

あたりまえである。

 

ではなぜ、拒否の感情が生まれるのか。

ひとつには「自己防衛」という感情があり、それは「恐怖」に裏打ちされていたりする。

そしてその「恐怖」は、「生きたい」「死にたくない」という強い感情に支えられている。

このように、原因の原因、その原因のそのまた原因、というふうに掘り下げていくと……。

結局のところ、

 

かくあるべし

 

という定義が、中心にあった。

 

じぶんを「定義」したのです。

どこで、どうやって、というストーリーはよくわからないけど、いま、ここにあるのは「定義」です。

その定義に背くものを、拒否しようとしている。

つまりは、視野が狭く、頑固で、意固地で、傲慢である。

 

そしてこの「かくあるべし」を形成している論理的骨組みの一部に、それはあった。

 

じぶんの身体がじぶんの味方であったことを失念している

 

こころが、からだを、敵視しはじめてしまったんだ。

わたしの「こころ」は、こう思う。

私自身には、問題はない。

からだや、神経に、問題があるのだ。

 

いっぽう「からだ」には、そんなややこしい精神性はない。

なにも考えてはいないし、定義もしない。敵対しようとさえ思わない。

ただ従順に、まるで忠実なイヌのように、こころの「判断」にしたがう。

こころがからだを拒否するというのなら、からだは自分自身を拒否し、攻撃する。

そして持っている「排除機構」を、フル回転させはじめる。

結果、さまざまな刺激に過敏に反応するようになる。

 

うまれたときから、ずっとずっと、一緒だった。

家族の誰とよりも、親友とよりも、恋人とよりも、長い時間一緒にいた。

一瞬たりとも、離れたことはなかった。

 

それを、疑うだなんて。

ぜったいに裏切らない、こころのいちばんの味方、いちばんの賛同者を、わるものにするだなんて。

じぶんのこころを守りたいがゆえに、だまって文句を言わないからと言って、理解の範疇を超えたトラブルがあったら即刻、からだのほうをわるものにするだなんて。

どうかしてるよね。

 

こころは、自分という包括的存在の「王様」だといえる。

忠実な従者を疑い、罪をなすりつけ、拒否するような王様はよい王様とはいえない。

まず人間としてクソである。

よい王様は、忠実な従者には労をねぎらい感謝するものである。

問題はカラダじゃなくてこの「こころのはたらき」にあるかもしれない。

脳とか神経じゃなくて「判断」という演算手順に。

じぶんの身体を信じられないという、汚染された定義プログラムに。

 

がんばって鍛えたり練習したから、からだが従順になって裏切らなくなるんじゃない。

近代ヨガの盲点は、ここにあるかもしれない。

からだを征服し、意思という王族に隷属させようとする軍国主義的な指向性がある。

ほんとうは、なにをしていても、なにもしなくても、サボっていても、悪いことをしたとしても、からだはいつでも裏切ったりしない。

なにがあっても、死ぬまで裏切らない。

母親が、ばか息子が悪さをしたとしても、それでも死ぬまで信じ続けるように。

疑い、裏切るのはいつも、こころのほうである。

全力で信じてくれるものには、全力で応えるのがこの世の理。

身体はコントロールすべきものではなく、こころとちからをあわせてともに歩み、信じあい、頼りあうべきものである。

 

 

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