忍び寄る狂気

ぼくはいわゆる心霊的な、あるいはオカルティックなことについては、あまり怖いとは思わないです。

幽霊もべつに怖いとは思わない。

いるかいないか、よくわからないことについていちいち怖がるのが意味不明です。

それにもし万が一いたとしても、恨みだか後悔だか心配だか知らないが、そんなしょうもない理由でいちいちこの世に未練がましく化けてでてくるという狭小な心を持っている霊など大したこと無いヤツだからです。

そんなもん、張り倒したったらええねん。

 

しかし現実的なことで怖いことは、いくつかあります。

天災や犯罪、病気などももちろん怖いですが、意外とこっそり、ダークホース的に影に潜んでいて、ひょっこり遭遇したらものすごく怖いのが「狂気」です。

あたまおかしい感じの人というのは、じぶんに被害があろうがなかろうが、怖い。

いわば「現実的ホラー」ですなあ。

 

じつは、ぼくの母親が最近、ちょっと怖いのであります。

母はいま80歳を超えていて、遺産相続がらみで別のところに一人で住んでいます。

年内には戻ってくる予定ですが。

そんな母が先日所用でひょっこり帰ってきて、久々に直接会話をしました。

もともとあった自律神経の調子が少し良くないことを除けば大変元気そうで、アタマも声もハッキリしていました。

イヌとも久々に遊んで、楽しそうにしておりました。

 

夕刻には帰っていきましたが、その後父親あてに母から電話があったのです。

ずいぶんな長電話でけっこう深刻そうな感じでもあったので、少し心配しておりました。

どうしたんだろう、なんか調子が悪くなったのか?

電話が終わると、父は大きくためいきをつきました。

「どうした? 何か大変なこと?」

聞けば、父はそうではない、というのです。

「いやな、オカン、ワシが浮気しとるという話を聞いた、いうてな・・・」

 

え、親父が浮気?

80歳前の、ずっと家で家事をしているような男が?

ほとんど24時間ぼくとずっと一緒にいて、近所のスーパーに買い物に行くぐらいしかしない親父が?

いつ、浮気するヒマがあるん?

そりゃあないだろうよ。

 

母いわく「ある人に聞いた」。

で、それは誰なんだというと、「名前は知らないが、たまに出会うおばさん」なんだそうです。

そのおばさんが母に「あなたの旦那さん、浮気してるわよ」と言ったのだそうです。

つまり親しい人でなく、どこかでたまに会ったような人に自分の配偶者が浮気していると忠告され、それを信じた、ということです。

ほんの数時間前まで、その「旦那さん」に直接会っているのに・・・

 

ゾっとした。

 

いえ、じっさいにその「おばさん」とやらに母が会っていれば、まだ良いのです。

ぼくは親父の話を細かく聞き、母がうちを出ていった時間と、電話がかかってきた時間、話の流れなどを綜合し、推理力をフル回転させた結果、ある結論に至ったのです。

 

母はそのおばさんに、会ってない。

しかし母はウソをついているわけでもない。

 

どういうことか。

そのおばさんは、「母の脳内おばさん」の可能性がある。

一種の幻覚のようなものを見ているのではないか。

 

ああーん、オゾゾが!

オゾゾが出ちゃうよう〜〜!!

コワイヨーー!!!

 

というのも、じつは似たようなことが、幼少のころにあったのです。

当時母はかなりストレスを抱えていて、親父が浮気していると信じていました。

そこで親父が出張に行くと家を出ていった日、母は8歳ぐらいのぼくを引き連れて新幹線の駅まで尾行をしていきました。

影に隠れながら、息をひそめつつ親父を追うというのはまるで映画のスパイみたいで、わりとワクワクした記憶があります。

そこで母は「決定的瞬間を押さえた!」というのです。

「ほら、見てみなさい、お父さん、喫茶店で知らないオンナとお茶してるわ!

子どもまでいるじゃないの!」

 

 

……いない。

いないのです。

 

どう目をこらしても、いない。

そもそも、親父がそこにいないのでした。

そのときは「ぼくがまだ子どもで背が低いから、見えないのかなあ」と思っていました。

そんなわけは、ないのですけどね。

だって全面ガラス張りの喫茶店でしたから。

 

もしかすると、母はちょっとした「アレ」かもしれません。

疑心暗鬼に陥ると、見えないものまで見えてしまうという、「アレ」。

 

「アレ」は、こわい!

ユーレイなんて、もう子犬とか子猫ぐらいに、可愛いわ!

 

母はもともと幽霊とかも見える、っていうタイプなんですよね。

きっと感受性が強いのだと思います。

ぼくも小さい頃は、そうでした。

 

これを「霊感」というのは、ぼくはちがうと考えています。

なぜならば、それが実在しているかどうかを決めているのが自分自身だからです。

客観的に実在しておらず、主観的に実在しているものは、幻想です。

もっといえば、客観的に実在しているものでさえ幻想の場合がある。

 

自分には見えているが、ほかの人には見えない。

だからそれは実在するんだ、見えないひとは、見る能力が乏しいだけだ。

そんな考え方は、完全にひとりよがりの「主観偏重」なのですよね。

ちがうのです。

ないものは、ないのです。

そして、もし見えていたとしても、それは「おのれのこころが生み出したもの」。

実体は、ない。

 

ぼくはもともと少し「その」傾向があることに気がついた時期がありました。

小学生の高学年ぐらいですかね。

だからできるだけ、客観的に自分が考えていることを考察するようにトレーニングしてきました。

感じたことについて、見えていることについて、それに実体があるかどうかを客観的に確認する。

「わたし」が見るのではなくて、「それを見ているわたしを見るわたし」が見るのです。

そうすると、やっぱり「いない」のです。

脳の誤動作で、実体があるように感じてしまっているだけ。

かんたんにいうと、思い込みが強いと、それは「ある」ことになる。

強すぎる感受性は、コントロールできていない、あるいは解消されていない欲望が生み出す。

それは幻想を主観的に実体化させることがある。

これを「狂気」という。

狂気は、だれでも持っている。

それが「発動するか、しないか」だけなのですね。

 

じぶんが見ている、感じているものを「絶対」としたときに、狂気は発動する。

じぶんが見ている、感じているものを「相対」としたときに、狂気は消滅するのです。

「見ているわたしを見ているわたし」が、ウエから見てみる。

後ろ斜め上45度から見下ろせば、「狂気に踊らされているわたし」だけが見えて、「わたしに見えていたもの」は消滅する。

 

消滅するということは、やっぱり「いない」。

そんなものは、いないのです。

気の持ちようや、視点座標の変更だけで消えてしまうようなものは、存在すべきではないもである。

コグニション・エラーである。

関わらなくてよし。

そんなものには、関わらなくてよし。

純然たる不毛である、無駄である。

 

母はおそらく、長期間の別居でストレスを抱えているのだと思います。

そしてさらに、その住処がいわゆる「汚部屋」というか、ひじょうにモノの多い部屋なのです。

そこは母の妹さんの家だったのですが、妹さんは「捨てられない人」の典型で、かなり広いマンションなのにフトン1枚引くスペースすらおぼつかないほど、モノにあふれているそうです。

遺産分割前なので、勝手に捨てるわけにもいかず、掃除すらままならない。

 

モノの多い場所にいると、脳疲労を引き起こすそうです。

するとアタマの情報処理が混濁してきて、どんどん主観的になっていく。

こころが疲れると、妄想が実体化しはじめるのです。

つまり、母はいま、疲れている。

 

はやくこっちに戻ってくるよう、算段しようと思います。

ぼくがこわいもの。

それは「狂気」です。

 

 

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