戦士の系譜

坐禅を毎日するようになって114日め。

最近たまに、ふと思うことがあります。

「ご先祖さまは、泣いているのではないか」

いえべつに、きゅうに霊感を体得して祖先の霊と対面した的な、そんなアブネー話ではないです。

 

本で勉強するだけでなくじっさいに坐禅を続けていくと、いままでぼくが考えていた仏教というのは妄想の一種だったのではないか、と感じることがあります。

殺生を禁じ、怒りや恨みなどの感情を捨て、一切の執着を離れるという仏教の思想を「学問」という側面から考えると、たいへんやさしい、癒やし系の、高度に知的な思想のようにも見えます。

しかし「一切の執着を離れる」というのは生半可な決意でできるようなことではなく、お金がほしい、出世したい、モテたい、健康になりたいという欲だけならまだしも、一般的には良心と言われているやさしさや慈しみ、愛情、和平なども放棄しなくてはいけません。

これはものすごく、コワイことなのです。

ある意味「人間であることをやめる」覚悟さえも、必要になるかもしれないです。

理屈や文字ではなく直感的な側面から見れば、仏教というのは「究極のロックンロール」ともいえます。

一種暴力的というか、善悪や良識という軸さえも破壊してしまって、ぜんぜん次元がちがう領域にぶっ飛んでいく強烈な思想かもしれないです。

 

やさしさとか、平等とか、平和とか、博愛とか、友愛とか。

そういうことを「よし」とする文化は、人類200万年の歴史のなかでほんの百年にも満たない期間にメジャーになったものでしかありません。

ついここ最近の、ほんの一瞬の間にポツンと出てきた新参者の思想ともいえます。

それまでの200万年間、人類はすべからく「戦士」でした。

領地や権利を争って、ちみどろの争いを繰り返してきました。

世界広しといえども、戦士のいなかった国はありません。

 

皮肉なもので、現在先進国と言われている国ほどその過去には地獄の大王すらも恐れおののくような血塗られた歴史を持っています。

そして現在先進国と言われている国に限って、かつては極度に勇猛で残酷な戦士たちがいました。

それがここ百年あまりの間のつかのまの平衡状態をして「人類は進化した」というのは、どうにもちょっと、横柄な気がしてならないのです。

アクエリアス時代に入って人類の精神性が変わったなどとぬかす輩もいますが、ぼくは全然そんなことはないと思う。

犯罪も戦争もなくならないし、イジメだっていまだに横行しています。

近所同士でしょうもない諍いをやっていたり、企業同士の経済戦争だって健在です。

なによりも、平和に坐禅をしているあいだでさえぼくの白血球は何億という悪玉菌をぶっ殺している。

人間は根源的に戦う生き物で、生きるということは戦うということで、それは星座がどこかの位置に入ったからといってデジタルにパキっと変わるようなものではないです。

過去数百万年をかけて蓄積してきた進化の結果は、現在生きている人間のからだの深淵に、きっちりと、なんら変わることなく残っています。

それを「知」によって強引に抑圧し変形させると、神経症というおかしな病気が生まれるのではないでしょうか。

 

戦うのです。

どう生きるかではなく、どう戦って死ぬかを考えるのです。

 

それがおそらく人間という生き物の、すなおな方針なのではないでしょうか。

教育や宗教という「知の領域」の方法論は、やさしく友好的で愛想よく知的な紳士淑女という「雛形」に人々を押し込めることにはいったん成功をしました。

しかし気絶させて抑え込み、押しつぶした「残酷さ」が、いったいどのようなカタチで反撃をしてくるかというところまでは予見ができませんでした。

圧縮するほど、爆発の破壊力は大きい。

 

ほんのちょっとした汚れに機嫌を損ね、神経質に毎日洗濯をし、からだを洗い、暑さ寒さに弱く、いつも人の顔色をネズミのようにうかがう。

ちょっとキツい言い方をされただけで凹み、あるいは自身がひとに少しキツい言い方をしてしまったことにも凹む。

健康を害するものに不安をおぼえ、健康に良いものごとをコレクションし、病気を極端に恐れる。

いったい、なにをやっているのか。

戦うことをやめた戦士は、そのようになってしまうのかもしれないです。

おちぶれてしまったんだ。

おちぶれて、お上品で、神経質で、よわよわしい存在になってしまった。

戦う相手がいないから、とうとう自分と戦いはじめた。

 

自身のルーツにこだわるのはよくないけど、忘れてしまうのもよくないと思いました。

過去数百万年のあいだ先祖たちが「戦ってきた」事実を、どうしていまさら葬り去ろうとするのか。

他人を殺すことで生き残ってきた事実について、どうして今さら無関係な顔ができるのか。

 

この世から、戦いは消えたりしないです。

生き残るのは、強い者だけである。

この事実はいくら文化が成熟し医療が発達しても、かわらない。

みんな、強くなる使命を帯びてうまれてきました。

戦うために、生まれてきました。

いくら賢そうで温厚な顔をしていても、その血液には戦士の魂がびっしりと流れています。

それについて「シカトをこく」から、あたまがおかしくなっていくのではないか。

 

ご先祖さまは泣いているのではないか、と思ったのです。

数百万年かけて蓄積してきた戦士の魂を、根本から否定しようとしている。

わたしは弱いタイプだからと、わたしは庇護をうけるべき存在だと、わたしは文明人なので野蛮はよくないと、勝手に決め込んでいる。

戦わずに得られた平和なんて、歴史上過去に一回もなかった。

ひとの首をちょん切ることだけが強さではない、ということを、ひとの首をちょん切る度胸も覚悟もないような者が言ってもなんら説得力がありません。

なのにじぶんだけは手を汚さずに、いい子いい子の清潔な世界でヌクヌクと生きていこうとしている。

不甲斐なくて、泣いているのではないのか。

 

しあわせになるために生まれてきたのではない。

戦うために生まれてきた。

だから恨みや怒り、悲しみだけでなく、やさしささえも、賢ささえも、捨ててしまえ。

そして、戦え。

そんな声が、聞こえたような気がしました。

 

 

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