The root of V

わくわくでも、どきどきでもなく、いきいきしてる。

これが、大事なことなんだろうなあ。

 

いきいきしてる。

って、じゃあどういう状態なんだろう。

こういうときは英訳してみると見えることもある。

英語でいきいきしていることは「lively」っていうんだそうです。

うーん、直訳すぎるかなあ。

ほかには「vibrant」とか「vigor」とかもあるね。

「active」とかも。

「exiteing」っていうのは、ちょっと違う気がする。

これは「わくわく・どきどき」のほうだから「いきいき」とはちょっとちがうなあ。

 

そこでふと思ったんだけど、単語に「V」が入っていることが多いなあ。

V。

もしかしたら「Vital」の「V」なんじゃないか?

Vitalっていうのは和訳すると「生命力」になる。

バイタリティー、とかよく言いますね。

ちなみにヨーガでは下から2番めのチャクラ(スヴァディシュターナ・チャクラ)に「活力」が眠っているとされていて、その音素は「Vam」です。

V。

いきいきしてるっていうのは「生命力が強い」っていうことなのか。

 

疲れていたり、やる気がなかったり、とにかく「いきいきしていない」ときって姿勢が悪くなるんですよね。背中がまるくなる。

そこで姿勢をまっすぐにすると、元気になったりすることもあります。

だから姿勢を意識しないさい、っていうことはよく言われます。

ただし、これも完全ではないのですよね。

ベクトルA:こころの状態→からだの状態

ベクトルB:からだの状態→こころの状態

という2種類の影響ベクトルはたしかにあるけれども、じつは「A」のほうがつよい。

こころの状態が、からだの状態を規定するちからのほうが強いんだよなあ。

だから「姿勢を正せばこころもまっすぐになる」っていうのは、正しいけれども、そのちからは弱い。

やっぱり起点は「こころ」のほうなんだなあ。

 

いきいきしていると、姿勢は「自動的に」まっすぐになるんですよね。

ちからも、コツもいらない。

かってに、そうなる。

だから整体的な視点で「姿勢がわるいから気分が落ち込むんだ」っていうのは正しいけれども、完全ではない。つまり本質的ではない。

本質的にはまず「こころ」のほうを「いきいき」させないといけないのだ。

こころがいきいきしていないのに、いっしょうけんめい姿勢を正そうとすると、ときに「壊れる」ばあいがあるのですね。

背骨や筋肉を痛めてしまうことがある。

しかしこころがいきいきしていたら、いくら姿勢がまっすぐでも絶対に傷めない。

ふしぎだ。

ふしぎだけど、そういうふうにできているのだと思います。

ベクトルはきっと「Aライン」がメインで、「Bライン」はサブなのだ。

こころが、からだを、規定する。

Bラインのほうばっかり攻めていると、つまり「からだを変えることでこころを変えようとする」ことばっかりしていると、こころも多少は変化するけれど、からだが壊れる場合がある。

これを「無理をする」という。

 

どうしたら、こころがいきいきするのだろうか。

ということを考える前に、

「どうしてこころがいきいきしていないのか」を考えてみる。

そしたら単純なのですよね。

「つまらないことばっかりしている」。

我慢とか辛抱とか、義務とか役目とか、倫理とか道徳とか、目標とか達成とか、そういった「社会的スキーマにおける存在条件」を優先してばかりいる。

ルールという「死んでいる概念」に隷属するからである。

 

いきいきするためには、バイタリティーが必要である。

バイタリティーとは、生命そのものである。

だから「生命に近づく」必要がある。

生命から離れて、生命が生み出した排泄物のようなものと仲良くしてばかりいるので、生命からどんどん離れていくのでありますね。

ルールというのはすべて、生命のうんこである。

生きているものではなく、生命のはたらきの結果にすぎないものである。

 

生きているものの結果ではなく「いのちそのもの」に接する。

これがまず、必要なんだろうなあと思いました。

生命の意味は、生命を見なければ見えない。

生命の結果である文字や概念、ことばや生産物などをいくら眺めてみたところで、そこに生命はない。

あるのは実体ではなく、痕跡だけである。

 

だから、ビー・ワイルドであるなあ。

野生をとりもどすべし。

20度前後の気温、50%前後の湿度などという「特殊環境」「人工環境」にとどまるな。

この世の「本体」に、じかに飛び込め。

過酷な環境こそがこの世の本質。

ひとの世界の根っこである。

書を捨てよ、町へ出よう。

次は町を捨てて、自然へ帰ろう。

そしてさいごに、気がつくんだろうなあ。

「いのちとは、自然とは、わたしであった」

まだ、経験してませんけど。

 

生命の根っこは自然のなかにある。

だから「いきいき」を見失ったひとたちは山へ登るのだと思います。

家や村や町という「死の世界」にずっといると、「V」が枯渇してしまうのですね。

いのちのなかで、いきいきしよう。

 

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