ものすごい柔軟性

いったん仏教とかヨガとかそのへんを捨ててみて気がついたのは「おれは硬かった」ということです。

考え方が、硬すぎる。

 

日本神話を読んでいて、そのおおらかさというか、アホさ加減というか、能天気さというか、そのへんにちょっとした感動を覚えたのですが、よく考えてみたら、そんなもん「序の口」でした。

じつは日本人て、もしかしたら「世界一柔軟な民族」だったのではないか?

 

神仏習合、というのがあるのです。

これは世界でも類を見ない現象です。

日本は昔からアニミズムというか原始的な自然信仰があったのですが、そこに仏教が伝来しました。

そこでそれを受け入れるかどうかという戦争があったのですが、結局仏教側が勝利して、日本に仏教が広まっていくことになります。

 

ここからが、衝撃的なのであります。

仏教側が勝ったんだからいわばヨーロッパにおけるキリスト教伝来のように日本も「仏教一色」になってもべつに全然おかしくなかった。

でもそうはならなくて、ふつーの顔して神社と仏閣が仲良く並んでいたりするのです。

この秘訣というか原因と言うか、それは「本地垂迹」という思想だったようです。

たとえば大日如来という密教の仏様は「アマテラス」と同一視された。

牛頭天王はスサノオと同一視されたり、大黒天はオオクニヌシと同一視されたりした。

サラっと読むと、ああそうですか、てなもんですけど、よく考えたら、

「なんなん、それ?」

ですよねえ。

どっちがエラいとか、合ってる間違ってるとか、強い弱いじゃなくて「いっしょじゃん」って、言っちゃったのであります。

大日如来とアマテラスは、いっしょじゃん! って。

で、一緒だから大日如来を信仰しなさい、じゃないんですよね。

ふつーの顔して、お寺も神社も両方残った。

 

ううむ。

なんかずっと日本にいるからマヒしちゃってたけど、これってじつは常軌を逸しているといっても良いのではないか。

たとえばキリスト教では土着の信仰を取り入れて布教に利用していました。

クリスマスなんかがいい例で、ホントはあれは土着宗教の冬至のお祭りだった。

クリスマスツリーとかリースとかそういう「カタチ」だけはいちおう残ったけど、思想的には旧いカミサマは全部ぶっ殺されたのであります。

ぜぇーんぶ、きっちり、キリスト教の「神」あるいは「イエス」に上書きされていった。

いっぽう日本では、大日如来がアマテラスを殺すなんてことはなく、両方きっちり残っていった。

 

柔軟性、ということを思うのであります。

いぜんお世話になっていたヨガの先生が言ってました。

「日本人って、世界的にもカラダが柔らかいほうなのよ」

これは理学療法士さんも似たようなことを言ってました。

日本人って、案外カラダが柔らかいのだそうです。

そういえば日本に留学に来ていたアメリカの大学生が柔道を体験してみたいといって10人ぐらい道場を訪れたことがあったのですが、全員ビックリするぐらいカラダが硬かったです。

うそやろ、冗談やろ、と思うぐらいでした。

半分は脚を揃えてまっすぐ前に伸ばして「ただ座る」ことさえできないのです。

正座さえできない人もいた。

フザけてるのかと思いましよ。

 

まあ生活習慣が大きいとは思うのですが、じつはほかにもカラダが柔らかい民族がいる。

それは、インド人。

ヨガの先生は世界中回っているような人だったから、いろんな国のひとを教えていたんだそうです。

で、先生が言っていることで「なるほどな」と思ったことがあります。

「一神教の国のひとって、カラダが硬いのかしら」

どういうわけか、タイとかの上座部仏教系の人は案外カラダが硬いひとが多いんだそうです。

そういえば上座部系って若干一神教ぽいところはあるんですよね。

ほとけさまは原則「お釈迦様」だけだから。

あと創価学会や新興宗教系のひとも、カラダが硬いのだそうです。

ううむ、そういえばぼくの母親と、その妹さんは、ガッチガチだったなあ。両方創価学会だった。

ぼくとぼくの親父はグニャグニャなのに。

まあこれもたんなる遺伝かもしれませんが、創価学会は仏教とは言いつつ「一神教」のスメルがプンプンしています。

ていうか新興宗教の大半は一神教っぽいところがありますけどね。

 

思考とカラダの柔軟性は正比例するという説もあります。

つまりガンコだと、カラダが固くなる。

血行がわるくなり、肩こりや腰痛、偏頭痛などに悩まされやすくなり、怪我もしやすくなってしまう。

悪化すると循環器系の病気を誘発することさえある。

「肩こりという言葉がないから、欧米には肩こりは存在しないんだ」などというビョーキみたいなことをいう国語学者がいましたけど、あれ完全にウソですからね。

ちゃんと「Back Pain」ていう言葉があって、それがあまりにも多いからカイロプラクティックという手技がうまれた。ほんとに学者って……。

それはいい。

それはいいんだけど、思考とカラダの硬さには因果関係がありそうです。

 

最近、ヨガを捨てたのです。

なんか、もうそういうやつを全部捨てちまおう、と思った。

そしたらですね、ふしぎなことが起こった。

ヨガをやめたのに、からだが柔らかくなった。

ふつうに考えれば、ヨガをしなくなったんだから、硬くなることはあっても柔らかくなることはないだろう、と思うのです。

でも、逆。

むしろ以前より、関節が柔らかくなっていたのでした。

 

だからぼくはいま、確信しつつあります。

習慣やメソッドによってからだの柔軟性を獲得するよりも、まずは「思考の柔軟性」を獲得すべきなのではないか。

思考を柔軟にするということはつまり「思考を捨てる」ということです。

イデオロギーとかイズムとか、そういうものを、きっぱり捨ててしまう。

それが「ほんとうのヨガ」なのではないか、と。

毎日やらないと柔らかくなれないのなら、それは柔らかいとはいえない。

ヨガなんて全然してないのに柔らかいし血行も良い、そっちのほうが、断然よくねえか?

 

もしかしたら、仏教伝来の頃の人たちって「ものすごい柔軟性」を持っていたかもしれませんね。

こころだけじゃなくて、カラダのほうも。

そうじゃないと「カミもホトケもようするに一緒じゃん」なんていう、龍樹菩薩も目をむくような驚天動地の思想はきっと思いつかないと思うんですよね。

 

ぼくも、取り戻そうと思う。

もう、いいぜ。

あれがいいとかわるいとか、これが強いとか弱いとか、どれが正しいとか間違ってるとか。

そんなことをいつまーでもグズグズ言ってっからカラダもガチガチになって、息苦しくなるんですよね。

どうだっていいぜ。

ようするに、根っこはみーんな、一緒じゃん。

 

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