あるくちからは、いのちのちから

最近あまりブログを書かなくなった理由のひとつに「はずかしい」というのがある。

ぼくは自律神経の調子がわるくてパニック障害もやっていて、そのことを改善しようとがんばってきた。

神経の具合がおかしいことの理由を、目を皿のようにしてネットを探しまわり、たくさんの本を読んだ。

さまざまなことを試し、あれが効いた、これは効かなかったと一喜一憂していた。

そんな日々を綴っていったのが、このブログだった。

 

肝心なところを、見落としていた。

いや、見落としていたのではなくて、わざと見なかったのかもしれない。

病気がなかなか治らなかったのは、病気が複雑だったのではなく、ぼくが複雑だったのである。

とくに、ぼくの「こころ」が複雑だった。

 

そんなに難しい話じゃねえや。

単純に、体力が落ちていただけだったんだと思う。

このことはもちろん、そう感じてはいた。

でも「腹の底から」じゃなかった。

というのも、若い頃にかなり激しい運動をしていて筋骨隆々だったので、体力には自信があったから。

いくら衰えたといっても、人並み以上だろう。

こころのどこかで、そんなふうなことを考えていた。

 

うそつけ。

AppleWatchを毎日つけるようになって、ぼくのその考えは全くもって「妄想」以外の何物でもないことがわかった。

AppleWatchは、日々の歩数を計測してくれる。

何も意識せず普段どおりの生活を送ったとき、ぼくの一日の歩数は「760歩」だった。

760歩。

成人男性のばあい、平均して一日に6000歩〜7000歩は歩くのだそうです。

それが、760歩。

そんな日々が、10年間。

 

ある時期「一日一万歩を連続100日」という目標を立てて、遂行したこともあった。

しかしこれを達成したからといって、病気はちっとも治らなかった。

なぜか。

あたりまえである。

「100日では短すぎた」だけだった。

10年間の怠惰のツケを、たかが100日ごときで返済できるわけがないのである。

そんな魔法のようなことは、この世にはないのである。

 

100日ではない。

1000日が必要だった。

つまり、約3年である。

10年のツケをその1/3の期間で許してくれるのであるから、これは大いなる恩赦である。

しかるに、その恩赦さえにも「長過ぎる」などと思うぼくがいた。

これはもう、クズ人間としか言いようがない。

だから、恥ずかしいのである。

ぼくは自分自身のことを、そこまでクズだとは思っていなかった。

 

「たった3年」でよかった。

1万歩でなくてもいい、一日に4000歩でもかまわない。

とにかくそれを、1年、2年、3年とつづけるべし。

 

とくに原因はないのにきゅうに息苦しくなるのも、めまいがするのも、ずっと息苦しい感じがするのも、暑いのに極端に弱くなったのも、すぐに風邪をひくのも、喘息のような状態になるのも、ずっとタンがからんでいるのも、「病気」とかではなかったのだと思う。

「トシ」でさえなかった。

ただたんに「極端な体力低下」だったのだと思う。

なにせ、一日に760歩なのである。

一般成人男性の一日の平均歩数の1/10に近い数値である。

そんな生活を続けておいて、どうして「昔運動をしていたから、そんなに体力は落ちていないと思う」などという発想が出てくるのだろうか。

それは「今を生きていない」からであった。

ぼくは、過去に生きていたのであった。

いまはもう、なにひとつ存在していない、妄想の一種である「過去」に生きていた。

 

「あるくちから」は「いのちのちから」。

 

筋トレも、ジョギングも、水泳もサイクリングもヨガもウェイトリフティングも縄跳びも格闘技も、それぞれ「良い運動」ではある。

しかしそれらは「いのちのちから」は増やしても、戻してもくれなかった。

歩く。

この究極的に簡易で普通の運動「すら」していないことに、大いなるつまづきがある。

筋トレだのジョギングだのヨガだの、そんな「高度な」ことをするまえに、やるべきことがある。

あるくのである。

「一般人の平均」ぐらいは、あるくのである。

一日に、6000歩。

これは目標ではない。

「最低ライン」である。

これを、1週間とか、100日とか、1年とかではない。

3年である。10年である。50年である。

あるきつづけろ。

あるくこと、それが生きるということである。

 

・・・ということに、ひとっつも気がつかなったのである。

理屈ばっかりこね回しやがって、肝心なところを完全にスルーしていたのであった。

もちろん、どんな運動をしてもよい。

悪いということはない。

しかし、日頃から「一日6000歩」さえも歩いていない輩には、すべてが豚に真珠である。

そんなに「いいもの」を使う権利など、与えられてはいない。

すべての運動は「ふつう程度にあるく」人のためにある。

哲学さえも「ふつう程度にあるく」人のためにある。

障害者を除き、ふつう程度に歩いていないものは、なにをやってもだめである。

その効果を精一杯享受できない。

歩けるものは、まずは「ふつう程度には毎日歩く」ことから始めることが必要である。

すべての話は、まずはここからだ。

 

あるくちからは、いのちのちから。

 

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