つながる・はなれる、ゆくるつながる

皮肉だなあ、と思った。

東日本大震災のあと、キャッチフレーズがうまれました。

「つながる」。

「絆」。

 

当時はそうだよなあ、つながるって大事だな、絆っていいなあって思いました。

やっぱり人は、人とつながってこそその真価が発揮される。

困難は「つながる」ことでこそ乗り越えていけるのだ。

そう思った。

 

しかし、皮肉なものであります。

このたびの全世界的なコロナウィルス禍では、「つながる」は厳禁なのでありますね。

もしあえてキャッチフレーズをつけるとしたら、

「はなれろ!」。

人と人は、できるだけ離れていたほうがいい。

「つながる」は、万能薬ではなかった。

はなれていることで、解決できることもある。

 

つながる、はなれる。

 

最近はリモートワークということも推進されてきていて、これも「はなれる」。

ぼくがいるIT業界はリモートワークがとくに浸透してきています。

最近感じるのは、これによって組織への所属意識がどんどん薄れていっているということです。

かつて日本の企業は「家族型」ともいわれていて、組織への帰属意識というのがとても強かった。

でも最近はそれがどんどん薄れていっているのですね。

 

そしてリモートワーカーたちの間では「オンライン飲み会」というのも増えてきています。

みんなで集まってどこかへ繰り出すのではなく、ネット越しで顔をあわせて自宅で飲むわけです。

これはリモートワークと深い関係があると思います。

職住接近ならぬ職住一致ともなると、飲みにいくためにわざわざ出かけるというのが億劫というかもう必要のないような気がしてくる。

リモートワークを推進すると帰属意識が薄れていき、直接的なつながりも減っていく。

 

現時点での世の中の傾向は「はなれる」かもしれないな、と思ったりしたのです。

というか今まではすこし、つながりすぎていたのではないか。

学校だの、会社だの、イベントだのといって、とにかく集まりたがる。

みんな同じ日、同じ時間に働き、同じ電車でいっせいに動く。

同じ休みの日に、同じ電車で移動する。

なにか理由をつけては、どこかに蝟集する。

つながる、というキャッチフレーズは確かに情緒的であたたかい感じもあります。

とくに震災後、先生の言いなりになっている頭の弱そうな学生なんかを使って情緒的なプロパガンダを執拗に実行したものだから、ことさらに「つながるヒューマニズム」に加速がかかった。

 

でも実際には、つながることにはデメリットもある。

構造的には「冗長性がない」といえる。

「一網打尽」ということが可能になってしまう。集団がいっぱつで殲滅する可能性もある。

震災についても、ほんとうは人が蝟集していることこそが問題だった。

日本人全員が国土まんべんなくスッカスカのバラバラに住んでいたら、大きな震災が起きたとしてもそれほど大きなダメージはない。

分散している、離れていることのメリットは、いがいと多い。

こころの問題もそうで、さまざまな情報や刺激が強く「結合・連合している」からこそ起こる。

それぞれが別個に離れているからこそ、正常な認知も実行される。

ほぼすべての狂気は「つながる」ことで生まれている。

「つながる」ことのデメリットは、たしかにある。

 

最近の若い人たちはやっぱり進化しているんだろうな、と思うのです。

twitterなどのSNSに代表されるように、「ゆるくつながる」という発想がうまれた。

当初はこれを問題視する風潮もありました。

とくにオッサン・オバハンどもが、これに抵抗した。

でも結局はこの構造がメジャーになった。

ネットによって人と人が「つながる」ことで、逆に人と人は「はなれて」いったのでした。

ほんとうに、皮肉なものであります。

 

しかしこれは、良いことかもしれませんね。

まあ「分断している」「隔絶している」というのは極端で良くないかもしれないけど、「ゆるくつながる」というのは、じつは意外ととっても堅牢なシステムなのかもしれない。

ゆるい、というのは、余裕がある、ということ。

今まで推進されてきたような緊密な連携、強固な絆、強い愛着、そういったものは逆にいえば「余裕がない」ということでもある。

 

進化しているのかもしれない。

このたびの「コロナ禍」で学ぶことがあるとすれば、この「ゆるく・つながる」ということの重要性を見直すことかもしれないですね。

はなれていることの、重要性。

近づきすぎないことの、重要性。

適正な距離感の、重要性。

「つながる」「絆」に執着すると、これが見えなくなってしまう。

 

 

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