なるほどなあ。
「衝動」に支配される世界—我慢しない消費者が社会を食いつくす〜我慢しない消費者が社会を食いつくす〜(ポール・ロバーツ著:ダイヤモンド社)という本を読んでいるところなのですが。
いわく、いまのこの社会は「インパルス・ソサイアティ(衝動に支配されている世界)」なのだそうです。
私はいま、何を学ぶべきか。
どういう努力をすべきなのか。
私は今、どこへ向かっているのだろうか。
みたいな青臭いことを考える時、まず行うべきは「座標確認」ですね。
いま、わたしは、どこにいるのか。
そして何より、「いまという時代は、どういう時代なのか」。
ネット技術の高度化によって、とても便利になりました。
必要なものがあれば、Amazonでポチ。
すると翌日には商品が届いていたりする。
便利でなによりじゃないか、すばらしいじゃないかと思ういっぽうで、どういうわけか妙な不安を感じることがあります。
「こんなに便利で大丈夫なのだろうか」
じゃあ何がわるいのか、と考えても、じつはよくわからない。
でもなんだか良くないことをしているような、このままだといけないような、そんな不安がたまに顔を出すのです。
そんな妙な不安に、この本は答えてくれる。
そうなんだ、そのとおり。
便利になりすぎると、人はどんどん衝動的になっていく。
そして社会や人との関わりを軽視し、自身の欲求を優先するようになっていく。
そしてこのことは個人の問題を通り越し、いずれ社会に悪影響を及ぼす可能性が出てくるというのです。
(個人の)夢想や恐れを中心に据えた社会経済システム(中略)この文化では協力や忍耐や自己犠牲といった価値観を嘲る。
さらにはわがままや自己陶酔が治すべき性格的欠点として扱われることなどない。
それどころか、ライフスタイルの選択肢や「製品カテゴリー」となり、正当化されるのである。
わかる。
身の回りを眺めてみても、「持論に自己陶酔している人」というのをよく見かける。
それは人生観であったり哲学や価値観であったりするのだけれども大概それは底の浅いものであり、しかし本人はそれに心酔している。
怖いのが、これが自己陶酔であるということに気がついておらず、自分が発見した真理でもあるかのように考えている節である。
なぜこのような主観傾注型の偏向が起きるかというと、簡単に言えば「ツッコミがいない」から。
おまえ、それ違うぜと、だれも言ってくれないのですね。
そして何より最もおそるべきは、本人がもはやそのツッコミから逃げている。
自分自身の価値観について反論する人を避け、同意してくれる人を探し、安寧の中に滞留しようと本人が望むのであります。
これはすなわち「社会の拒絶」である。
こうなってしまうのは本人の性格や知能に関する問題だけではなく、いまのこの「消費者中心経済社会」ということも大きく影響しているのかもしれないです。
そういえば、大学生であるぼくの娘の世代でも、おかしな傾向がよく見られるのです。
自分自身を「コミュ障」などと卑下するわりには、コミュニケーション能力が高く社交的な人のことを「リア充」「パリピ」などといって嫉妬まがいの侮蔑的視線で眺めていたりもする。
就職活動については「わたしが何をしたいのか」という利己的な自己実現欲求ばかりが優先し、「わたしが社会でどうお役に立てるだろうか」という自問自答が一切ない。
このあたりの特徴について、ぼくはあまり整理ができていなかったのだけれども、やっとわかった気がする。
これは本人や教育に問題があるというよりも、この消費者中心経済をベースとした「インパルス・ソサイアティ」の結果なのかもしれない。
個人の欲求や衝動に依存した経済社会においては、人は内向的になり、利己的になり、個人主義が加速していくそうです。
このことはぼく自身にも当然いえることで、ぞっとしたのです。
わからないことはあるとすぐネットで調べたり、必要なものがあればすぐAmazonやRakutenをつかう。
そして、さして必要なものでもないのに、あまり熟考せずに買ってしまうことがある。
こうした「必要」よりも「欲しい」が優先され、かつそれが簡易迅速に実現できるようになると、おそるべき人格の変化が起こるのです。
気が短くなっていく。
Amazonですぐに手に入れられるようなものが近所のスーパーにないと、イラっとしたりする。
これだから旧態然とした店舗はクソなんだよな、とかへんなことを思うようになる。
非常に簡潔にいうと、便利で衝動に依存した経済システムに居座り続けると、どんどんバカになっていってしまうようなのです。
とても反省をしました。
ぼくはしばらく、SNSは当然として、Amazonなどネットショッピングとは少し距離を取ろうと思います。
ネットサーフィンもやめよう。
便利なことは、ひとをどんどん堕落させていくのかもしれません。
ただ堕落するだけならまだ良いのですが、最も怖いのがまったく自覚しないままに愛を失っていくということです。
便利になると、その便利を支えてくれている人の存在を忘れてしまうようになり、まるで自分自身の努力と意図だけで生活が回っているように勘違いをしはじめる。
これは、何よりもおそろしいことです。
いまわたしが、こうして生きていられるのは、数え切れないほどの人が支えてくれているから。
それなのに、その支えてくれている人たち=社会を忌避し距離を取ろうとするのは、隠遁とか隠居とかいうそんな透明で高貴なことなどではなく、ただ愛を喪失しただけ。
愛のある人は、積極的に人と関わり合うといいますが、
それはじぶんに対して批判的な人に対してでさえ、愛を持てるからだと思います。
気の合うひとだけに愛情を持てるのは、愛ではなくて自己愛なんだそうです。