ずいぶん収まってきたけど、それでも怒りがなかなか、おさまらない。
りくつや、あたまでは整理できて、理解できても、こころが言うことをきかない。
わなわなする、落ち着きがなくなる、食欲が失せる、息が詰まる、冷や汗が出る。
これを医学的にいえば「交感神経が興奮している」となります。
しかし、じゃあだからといって、「逆に副交感神経を優位にすればよい」という幼稚な理屈をもちだして、息を長く吐いたり、手足を温めたり、ヨガをしたり、瞑想をしたり、リラックス音楽を聴けばそれでいいかというと、もちろんそんなことはない。
ものごとは、そんなに安直でもないのですね。
そんなことをすると、かえって具合が悪くなってしまうことさえ、多々あります。
しかし、へんなことで、あるワードを思いついた瞬間に、怒りがスーっと収まりはじめました。
もちろん完全ではありませんが、もうどうしようもなかったあの黒い感情が、かなり彩度を落としてきました。
そのワードとは、
怒りは、ただのエネルギーである
です。
怒りの原因を突き止め明らかにし、その原因を排除したり、変更したり、それから逃避しようとしたりする。
そういうことを考えている限りは、じつは怒りはいっこうに、収まらなかったりします。
そのロジックがいかに正しく論理的で、現実的であったとしても、怒りが収まるとは、限らない。
なぜか。
原因を追求するということは、怒りとずっと「付き合う」ということにほかならないからだと思います。
ぼくが怒っているのは、あれが原因だ、これが原因だ。
そうやって考えをめぐらせることじたいが、怒りの対象を、ずっとこころの中に飼っておくことにほかなりません。
「原因があったから」「怒っている」という演繹ロジックに思いを馳せる以外にも、「怒りそのものを観察する」という手があった。
じっと、見てみる。
じっと、見てみる。
じっと、見てみる。
そうすると、気がついた。
これは、膨大なエネルギーだ。
善か悪か、きれいかきたないか、あるべきかあらざるべきか。
そういうことは、いったんさておき。
エネルギーであることには、ちがいがない。
ニトログリセリンは、悪用すれば、ダイナマイトになります。
しかし善用すれば、心臓病の薬になる。
だからニトロそのものは、良いともいえないし、わるいともいえない。
発火性が非常に高い物質。
ただ、それだけだ。
怒りも、同じかもしれない。
外部にそのまま悪用すれば、暴力、誹謗中傷、戦争、犯罪を引き起こす。
内部にそのまま悪用すれば、うつ、パニック障害のほか、各種ストレス性疾病を引き起こす。
では善用すれば、どうだろう。
怒りはただの、エネルギー。
ならばそれを「昇華」することも、可能なのではないか。
パニック障害を患っていらい、ぼくはおとなしくなりました。
なんかこう、こころの奥底から、強いエネルギーが湧いてこなかった。
活気というか、活力というか、元気というか、そういうものが、どうも欠落しているように感じることが、多々あります。
だからどうすれば元気になれるか、なぜ元気がないのか、いろいろ考え、また、元気になれる方法を、たくさん探しました。
でも、なかなかうまくはいきません。
セロトニン、ホルモン、血流、呼吸、栄養、そんなワードがぐるぐる廻るだけで、りくつではわかっても、結局実際に元気には、なれない。
そりゃあ、当然かもしれない。
「エネルギーのもと」が、切れていたのだもの。
きれいとか、きたないとかじゃない、「ただのエネルギー」。
これが表に出てこなかったから、元気がなかったのでは?
ほんとうのほんとうに、エネルギーが完全にきれてしまったら、もう怒ることもなくなるんだそうです。
無感情になり、放心し、無関心になる。
生きようとさえ、思わなくなる。
ぼくはまだ、怒れるじゃないか。
ということはまだ、エネルギー切れの状態ではない、ということだ!
怒れる元気が、まだまだあるんだ。
もともとは、ふんだんにあった、エネルギー。
それを「こうあるべきだ」「ああせざるべきだ」、そんな倫理観で、心の倉庫のなかに、押さえつけてきた。
あまりに永い期間押さえつけ、しまいこんできたものだから、いつのまにか「なくなった」と、勘違いをしていたようです。
そうじゃない!
ある。
あったのだ。
ものすごく膨大な、強大な、圧倒的なエネルギーが、ぼくのこころのなかに、しっかりと存在している。
それも、いま。ジャストナウ。
怒りによってめざめ、龍のように、とぐろを解いて、飛び出してきた。
これを「使わない」手は、ないだろう。
イメージしてみた。
真っ黒な原油のような、どろどろした、でも、とてもとても強い強いエネルギーが、胸、みぞおち、腹のあたりでうずまいている。
そこへ、すごくきれいな、神々しい、あたたかい、春の太陽の光があたる。
そうすると、石油を精錬すれば透明なガソリンになるように、その黒いどろどろは浄化され、解けて、ゆるんで、柔らかくなり、どんどん透明になっていく。
さらさらとひかる、まるで「それ」は、きれいな岩清水のような色とすがたに、精錬されていく。
精錬された「それ」は、さらにさらに、強いエネルギーになっていく。
そして「それ」は、光となって拡大し、ぼくの全身を覆う。
・・・・・・。
うむ。
「どうすれば怒らないでいられるか」
「怒りの原因はなにか」
「どうすればコントロールできるか」
そんなことをぐずぐず考えているよりは、圧倒的に、効果が高いぞ。
やっぱり、理屈なんぞ、理由なんぞ、クソくらえじゃ。
ばかとはさみは、使いよう。
怒りも同じく「使いよう」かもしれないですよね。
怒りは、ただの、エネルギー。
それならば、精錬することも、昇華することも、可能なはず。
ぼくを怒らせてくれた親父に、感謝しよう。
すこし荒療治ではあったが、ぼくの「エネルギーの封印」を、解いてくれたのかもしれない。
よし、やろう。
また月曜から、元気よく、仕事をするぞ。
改善策を考える前に、いまできることを、せいいぱいいやろう。
そしてほんとうに、いつか、両親に楽をさせてやろう。
この怒りには、それぐらいのことはできそうな、強いちからを感じる。
怒ってしまうことを、もう恐れない。
丁重に、お迎えしよう。
それは「チャンス」かもしれないんだから。
怒りは強ければ強いほど、そのエネルギーも強い。