昨日今日と、むちゃくちゃ投稿が多いな。
これはぼくがいま、精神的に不安定だからです。
親父に心無いことを言われて傷つき、怒りが爆発してしまった。
パニック障害と外出恐怖症で、両親には迷惑をかけています。
それについて、親父は、
俺たちももう長くない。
おまえのその病気は、いつ治るのか。
来年か、再来年か。それを決めてくれ。
そして仕事はいつになったら、もっと儲かるのか。
治す努力をしていても、治っていないなら、努力してないのと同じだろう。
結局、いつになったら、おれに金をくれるのか。
そんなことを言った。
ぼくは、おそらく生涯ではじめて、というぐらいキレた。
昨晩はわなわなふるえて、ほとんど眠れませんでした。
いっそ家を飛び出して、もう金輪際、帰ってこないでおこうとさえ思った。
ぼくは在宅の個人事業主ですが、パニック障害の悪化のせいで、外出恐怖症になりました。
そもそも会社をやめたのも、パニック障害のせいです。
自営業で外出ができないなど、もう「終わり」も同然です。
しかしぼくは、あきらめなかった。
なにか方法は、あるはずだ。
できないことがあるということは、できることがあるということ。
そう信じて、必死で考えた。試した。実行した。
結果、一般的なサラリーマンと同等か、すこし多いぐらいには、利益を出せるようになりました。
仕事がなかったころの借金も完済した。
おれは、やった。やったのだ。
そこへきて、
「いつになったらもっと儲かるのだ」
「病気が治る日時を約束せよ」
「おまえは、努力をしていない」
これは、ない。
だからぼくは、劇的にキレた。
しかし、思い直した。
怒ってしまうのは、自信がないからだ。
ぼくは、いままでしてきたことを書き出して、じぶんがいかに頑張ってきたかを、確認しました。
そうすると、もちろん、まだまだ足りないところはたくさんあるけれど、まあよくやったほうだ。
外出にすら行けないもので、ここまで仕事を回せるものは、そんなに多くはないはずだ。
ほぼすべての顧客から信頼を得て、もうあなたにしか発注しない、そこまで客に言わせることができるものは、そうはいないはずだ。
なぜぼくは、こんなことができたのか。
「これしか道がなかった」というのが、まず第一。
第二に、経験してきたことを、ちゃんと活用できたからだ。
営業でシゴキ回されたこと、自ら無理難題に挑んで、たくさん失敗したこと、たくさん怒られたこと。
たくさん落ち込んだこと、たくさん復活したこと、夜逃げ寸前まで追い込まれたこと、そこから復活したこと。
第三に、勉強を続けていること。
ぼくは、成功者ではない。
しかし、敗北者でもない。
じぶんができることを、せいいっぱい、せいいっぱい、やってきた。
それだけは、胸を張って言える。
そして一定のラインまでは、持っていくことができた。
これは、自信だ。
今回、ガラにもなく怒ってしまったのは、その理由はよくよく考えれば、つまらないことだったのです。
親父にもっと、褒めてほしかった
そんな甘えた気持ちがあったのです。
しかし親父から見れば、ぼくがどんな仕事をしていて、なにを苦労していて、どれだけ社会から信頼されているかを、知ることができない。
理解ができない。ITの世界など、まったく縁がないのです。
だからただただ、うっかり文句をたれただけだ。
しかたがない。
親子とはいえ、生きてきた環境も、経験も、知識も、なにもかもがちがうのだから。
そしてぼくは、思ったんだ。
元公務員の老人に、何かゴジャゴジャ言われたぐらいでキレるなど、くだらん。
時間の無駄だ、鼻で笑え。
実の息子がいうことよりも、テレビのほうを信用するような親父。
ぼくはある部分で、もう親父は超えた。
親父はサラリーマンだったが、小さいながらも、おれは社長だ。
パニックと外出恐怖を抱えた、社長なんだ。あんまりいないぞ。
これだけの数の顧客から信頼を勝ち得ることは、個人では、あまりない。
お客さんは、みんないってくれる、
「あなたほどちゃんとしてくれるひとは、いません。」
パニックを患ったからこそ、苦労したからこそ、泣きながら頑張ったからこそ、できた。
退路を全部断って、ここに賭けたから、できたんだ。
遠慮がちで、謙遜気味のおれだから、誰にも言わなかった、ぼくなんか大したことないよと言ってきた。
でもいま、おれは、はっきりいう。
おれは、やったんだ。
それなのに、老人にちょっと難癖をつけられたぐらいでキレるなど、なんたる、ていたらくか。
もっともっと、どん底までなじられたことは、いままでいくらでも、あっただろうが。
悔しくて眠れないことだって、数えきれないぐらい、あったじゃないか。
殺したいほど憎んだやつも、いた。
人生をあきらめたことさえも、あった。
それでもおれは、必ず這い上がってきた。
その誇りはどうした!
しっかりしろ!
おれと同じことを、親父には絶対にできない。
だからおれは、親父になにを言われようが、もう気にする必要はない。
わかることができないものに、わかってもらおうとするから、悩む。
わからない人は、わからないままで、もうかまわない。
「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」
イエス・キリストも、そういった。彼もきっと、ずいぶん、悩んだんだろうな。
ひとに美点を見てもらえないのなら、
美点はじぶんで整理して、みずからこころに叩き込め。
おれは、親父に認めてもらうためにがんばってきたんじゃないし、生きているのでもない。
不具合があっても、生き抜くために、がんばってきた。
不具合があっても、これぐらいはできるんだということを、証明したい。
もっといえば、不具合なんて本質的には無関係なんだということを、証明したい。
なにを、恥じ入る必要があるか。
高い目標を掲げているのに、ちょっと理解されないぐらいで、なにを怒る必要があるのか。
理解されないということは、その人の理解を超えることをもうやっている、という証拠でもある。
傲慢になっては、いけない。
でも、自己卑下は、もっといけない。
どちらもじぶんを、ただしく見ていない。
おれがやっていることで、うまくいかない場合は、むしろ世の中のほうに問題がある。
おれでもなく、親父にでもなく、社会に、そう言わせてやる。