あまり縁がないはずなのに、どうしてキリスト教にシンパシーを感じていたのか、やっとわかりました。
ぼくは「ゆるし」を求めていたのだと思う。
幼少のころ母親が熱心な創価学会で、親戚一同もそうでした。
まだ物心がつかないフワッフワな状態からいろんな教義を仕込まれていたのですが、アホじゃあるまいし、そのうち思った。
「うそつけ」
いわく、真言宗の家は男性がダメンズになるとか、あの家のおじいさんは念仏宗で謗法を犯したから頭破作七分でボケちまったんだとか、ホンマけ?
ほんとにちゃんと調べたのか?
全国のすべての家の宗派と、その結果を整理して言っているのか?
疑問は持ったものの「ほかのすてきな教え」の代替はない。
四箇格言という「恐怖の大否定教義」がこころの根っこにあるから、日蓮宗を捨てて念仏宗に行くということもできない。
「うちだけが正しい」と教えられていたところから脱落すると、「三界に家なし」の状態になる。
ほぼ完全なる意味で、頼るところがない時期がうまれる。
ぼくのばあいキリスト教は「圏外」だったのです。
ぼくの周囲にいた創価学会のひとたちはいろんな宗派を攻撃するけれども、キリスト教についてはあまり文句を言っていなかった。
創価学会なのに、キリスト教の病院に通っているひともいた。
プチ宗教戦争の枠からはみ出した中立安全地帯、それがキリスト教だったのでした。
むろん、創価学会ではキリスト教のことも強く否定しています。
たまたまぼくの周りに「火種」がなかっただけであります。
圏外だから「呪いの四箇格言」の効力が及ばない。
生きていけば、つらいことはある。
だれかに助けてほしいと思うこともある。
しかし創価学会や日蓮正宗では「題目が足らないからだ」という。
つまりはようするに「ぜんぶおまえがわるい」と言われる。
信心なきもの、題目せざるもの、他宗に浮気をする者に救いの手はなし、地獄あるのみであるという、一種の恐怖政治である。
とはいうものの、どうがんばってもそちらに信仰が持てない自分がいる。
ぼくは周囲の大人たちとじぶん自身に、責められ続けていた。
日蓮正宗の勤行のようなもので、キリスト教には「朝夕の祈り」がある。
【朝の祈り】
新しい朝を迎えさせてくださった神よ、きょう一日わたしを照らし、導いてください。
いつもほがらかに、すこやかに過ごせますように。
物事がうまくいかないときでもほほえみを忘れず、いつも物事の明るい面を見、最悪のときにも、感謝すべきものがあることを、悟らせてください。
自分のしたいことばかりではなく、あなたの望まれることを行い、まわりの人たちのことを考えて生きる喜びを見いださせてください。
アーメン。
【夕の祈り】
一日の働きを終えたわたしに、やすらかな憩いの時を与えてくださる神よ、あなたに祈り、感謝します。
きょう一日、わたしを支えてくれた多くの人たちにたくさんの恵みをお与えください。
わたしの思い、ことば、おこない、おこたりによって、あなたを悲しませたことがあれば、どうかおゆるしください。
明日はもっと良く生きることができますように。
悲しみや苦しみの中にある人たちを、助けてください。
わたしが幸福の中にあっても、困っている人たちのことを忘れることがありませんように。
アーメン。
キーワードは「ゆるし」であります。
戦々恐々としたプチ宗教戦争のエリアからエスケープして、ぼくは救いを求めたのだと思うのです。
キリスト教の方面には「すべての人は救われる」という思想があります。
その根幹をなす考え方が「ゆるし」のようです。
「だれもゆるしてくれない」世界からすこし見えた「ゆるしてくれる世界」。
光におびき寄せられる蛾のように(このたとえなら、ぼくは蛾になってしまうが)ふらふらと近寄っていったのかもしれません。
キリスト教がいいのかわるいのか、それが理由ではなかった。
「ぼくを許せないぼく」が、いちばんの理由だったのだと思う。
そういえばキリスト教の教会に足を運んだのは、パニック障害がもっともつらい時期でした。
だれかを頼ろうとは思えないから、だれかに頼ることもなく、だから当然、だれも助けてくれない。
だれかを頼ろうと思えない理由、それは「結局ぜんぶおまえの責任である」という強硬な宗教教育にもその原因があったのだと思います。
宗教的真理は信じていても、人のことは信じていない。
そんなおとなたちが、ぼくの身の回りにたくさんいた。
本音で言えば、ぼくはだれかを頼りたかったし、だれかを信じたかったし、泣きたかったのだと思う。
それを拒否していたのは、ほかでもない、ぼくのこころであります。
きょう一日、わたしを支えてくれた多くの人たちにたくさんの恵みをお与えください。
ひとのために、祈る。
わたしの病気を治してください、こんどの試合に勝たせてください、受験に合格させてください、出世させてください、恋愛を成就させてください、そんな「わたしのための祈り」ではない、「ほかのひとのための祈り」。
ぼくは創価学会や日蓮正宗のお寺でそんな祈りを聞いたことがなかった。
異教徒や他人のことは祈らずに「わたしを助けてくれ」と、祈っている人ばかりだった。
「広宣流布をすれば全員が救われる、だから人のために祈るより、折伏こそが大事なんだ」なんていうのは、祈りとはいえない。
それは「ドグマ」というのだと思う。
祈りとドグマは、まったく別のものである。
たまに、こころのなかで、言ってみる。
「わたしを支えてくれた多くの人たちに、たくさんの恵みをお与えください。」
そうすると、すこしだけ、やさしい気持ちになれる。
ひとのために祈れるわたしは、それほどクソではないとも思える。
すこし、安心する。
呼吸が深くなる。
おだやかになる。
力みがとれる。
これを、求めていたのかもしれない。
ぼくは何かにゆるされたかったし、何かをゆるしたかったし、何かに感謝したかったし、何かに謝りたかったし、何かを愛して、信じたかったのだと思う。
ゆるしと、感謝と、謝罪と、愛。
つまり、祈りたかったのかもしれない。
ぼくはずっと「望んで」「願って」はきたけれど、「祈って」はこなかった。