えもうえ歳なんですけど、いまだにわからないことがたくさんあります。
野球の応援とかアイドルとかそういうのに熱狂するひとの気持が、いまだにわかりません。
野球選手になろうとか、アイドルになろうとかいうひとの気持ちなら、まだわかります。
でも「ファンになる」っていうのは、全然わからないです。
そいつ、知らんやつやん。
俺は何も儲からへんやんけ。
もうほとんど狂人化しているのを見ると、正直コワイです。
「いじめ」というのも、それと同じぐらい、よくわからないです。
なぜ、だれかをいじめようと思うのか。
いっしょうけんめい拙い想像力をブーストさせて考えるのですけど、気持ちがわからんのです。
なにが楽しいのか、それをしてなんのメリットがあるのか、まったくわからん。
ヤンキーがカツアゲをするのは、わかるんです。
カネがほしいから、弱そうなやつを張り倒して金品を搾取するというのは、わかる。
明確な「カネ」という目的と報酬があるから。
わりと衝撃的というか、「え、うそでしょ」と思ったのが、小学校の先生が、同僚をいじめていたというニュースです。
https://www.sankei.com/west/news/191007/wst1910070016-n1.html
「目や唇に激辛ラーメンの汁を塗られた」「羽交い締めされて激辛カレーを無理やり食べさせられた」
小学校の先生ということはもう20歳は超えているわけで、そんな人たちの間でも「いじめ」というのがある、というのが衝撃的でした。
やっていることも、なかなかロリータな感じです。
「いい」とか「わるい」とか「情けない」とかそういう情緒的なことはさておいて、ただ不可思議です。
ぼくが通っていた小学校にも、いじめはありました。
確かにいじめられっ子というのは、なんだか暗いオーラを出しているものです。
ぼくは聖人君子ではないので、正直「こいつ気持ち悪いなあ」と思う人はいました。
だからこそ、不可解なのです。
気持ち悪いと感じるひとに、どうして自分から近寄っていくのだろう。
ぼくは暗いオーラを出しているひとが怖いし嫌いなので、絶対に近づかないです。
だから「いじめる」という接点すらも、発生しないのです。
ハタから見ているとよくわかるのですけれど、いじめている人は、じつはいじめられっ子と同じようなオーラを出しているのですね。
よく似ているのですよ。
いじめという世界の外から見ると、いじめっ子も、いじめられっ子も、目くそ鼻くそです。
ただ、いじめられる子というのは、おとなしくて目立たない子が多かったです。
確かにうすぐらいし違和感はあるけれど、なんか忍者っぽいと言うか、あまり存在感がない。
なんら行動らしい行動をしないのです。
しかしいっぽういじめっ子というのは具体的な「いじめ」という行動をします。
だからけっこう目立つのですね。
同じようなねずみ色のオーラで、いじめられっ子は目立たないけど、いじめっ子は目立つ。
「いじめる人」というのは、これに気がついていないのでしょうか。
ハタから見ると、同じに見えるのですけれどね。
いじめられっ子も気色悪いが、実はいじめっ子も、相当気色悪い。
そこで小学生時代「いじめっ子をいじめる会」という闇の組織がありました。
いや、表立って活動していたので、闇でもなんでもないですけど。
じつはぼくも、会員でした。
べつにいじめっ子に天誅を下すとかいうような、正義の味方というわけではありません。
ハタから見ると同じに見える彼らのうち、「目立つし、うるさいほう」を排除しようという作戦行動が主体でした。
いじめられっ子がかわいそうだ、という義侠心も多少はありましたが、いちばんの理由は邪魔者の排除でした。
ぼくの小学校では、女の子のいじめっ子が多かったです。
そこで「いじめっ子をいじめる会」は、彼女たちをターゲットにしていきました。
休み時間のうちに、いじめっ子の机にヤクルトの空き容器に墨汁をいっぱい入れたものを10個ぐらい並べておく。
教科書を出した瞬間に、服がまっくろけになるのです。
これは女の子は全員、確実に泣きます。
ぼくたちはバカだったので、
「だれがやった!」
と先生が激怒すると、
「はい、ぼくたちがやりました!」
といって全員が起立していました。
そして、殺されるんじゃないかというぐらいにこっぴどく叱られました。
それでもいじめをやめない女の子は「全裸に剥く」という懲罰もありました。
今考えたら、完全に犯罪です。
しかしこれは効果ができめんで、それいらい、いじめは消えたようでした。
最終的に「組織」は勝利したのです。
まあもちろん、これも血が出るほど先生たちにぶん殴られましたが……。
しかしよく考えれば、ぼくたちがしていたことも結局は「いじめ」だったのですね。
だからまったく、良いことではありません。
ただし少しだけ角度がちがうのが、目的が誰かをいじめることではなく、制裁であったということです。
どうしてこういう組織ができたかというと、はやりぼくたちには理解ができなかったからです。
だれかをいじめるという行動に、どのような目的とメリットがあるか、ということが理解できなかった。
だから「制裁」などという、短絡的な行動になってしまったのです。
大人になって思うのは、もしかしたらいじめっ子たちも「制裁」だと思ってじめをやってたのかもしれないな、ということです。
「いじめっ子をいじめる会」の制裁対象は「行動」だけでしたが、ふつうのいじめっ子たちの制裁対象には「雰囲気」や「弱さ」、「言語化できない特質」も含まれていたのではないか。
いわゆる異質なものを排除しようという、本能的ななにかが。
さかなクンいわく、狭い水槽に無理やり多くの魚を入れておくと、魚の世界でも「いじめ」が発生するのだそうです。
強い個体が、弱い個体を排除しようとする。
もしかすると人間も学校や教室という狭い空間に無理やり押し込まれたことで、本能的な縄張り意識や同族意識などが発現して、明らかに異質なものを排除しようという行動に出てしまうのかもしれません。
そういえばぼくたち「いじめっ子をいじめる会」も、「いじめっ子」を異質と認識していたのです。
うるさいし、陰湿だし、弱いくせにえらそうだし、邪魔だ、と思った。
だから結局のところ、ぼくたちは同じ平面上で「異質を排除する戦争」をしていたに過ぎないのです。
たまたまぼくたちの「水槽」は、弱い – 強い という二重構造ではなく、弱い – 強い – バカ という三重構造をしていたのだと思います。
「いじめっ子をいじめる会」が戦争を制したのは、バカは無敵だからです。
先生や校長に怒られようが親にチクられようが、そんなの関係あるもんか、というバカばっかりだった。
決して不良ではないのですけれど、歴然たるバカだった。
「いじめ」というのは、根本的になくそうと思うのなら「水槽を利用しない」ことなのではないか、と思うのです。
学校とか職場といった狭い枠内に多くの個体を閉じ込めるから、本能にスイッチが入ってしまうのではないでしょうか。
本能のコントロールがすこし苦手なタイプのひとたちが、つい「いじめ」という排除行動の虜になってしまうのだと思うのです。
ちがうかな。
ちがうんだろうなあ。
だって、「気持ち」がわからんのだもの。
キライなら、いちいちなんで、寄っていくん?
てきとうに距離置いとけばええやんけ、と思うんですけど、彼らはどんどん、近づいていく。
わざわざ、相手に、近づいていく。
わからん。
もしかしたら「サル山の大将」的なことで、自分より弱いものに対してマウントを取ろうとしているのでしょうか。
ううむ、もしそうだったら、合理性が低すぎます。
集団で一番弱いものに対してマウントをとって安心していても、そのもうひとつ上の強者に「いっしょにまとめて」マウントをとられてしまいます。
弱いものに対してマウントをとっていても、上位者に勝てる見込みはまったくありません。
不毛すぎる。
どうせマウントをとるのなら、その集団で最も強い者と対決しなければ、まったく意味がないです。
日頃から自分より弱いものではなく、少し強い者に対して勝負を挑みつづけるほうが最終的に「大将」になれる可能性が高いですものね。
40年以上生きてきても、わからないことは多いです。
だからもう勉強するのはやめようかな、と思います。
こんなもん、勉強したって、わからん。