坐禅も今日で、94日め。
最近、どうも腑に落ちないことがあるんですよね。
すごく時間が長く感じるようになった。
最初の頃は5分間でやっていて、それでも長く感じていました。
徐々に時間は伸びていって、ここ1ヶ月ぐらいは中途半端ですが「18分」でやっています。
日によってちがうのですが、だんだんと時間が短く感じるようになっていたんですね。
ぼくはこれは、良い傾向なんだろうと考えていました。
それだけ集中できているんだろうなあ、と。
しかし90日を超えたあたりから、妙に長く感じるようになりました。
ただ最初の頃の「長いなあ」とはすこし、ちがうのです。
以前はとにかく辛くて長く感じていました。
脚は痛いし痺れるし、背筋をピンと伸ばしているのも続きません。
だから当初は坐禅をしているというよりは、姿勢維持のトレーニングをしている、っていう感じでした。
そんな日々を過ごすうち、コツのようなものを発見したんですね。
アゴを引くとか脳天を天井につけるとか背筋を伸ばすとかいうことを考えるよりも、「腸腰筋」という筋肉を使えばとてもラクに姿勢が伸びることがわかったのです。
結跏趺坐をした状態で、ヒザをすこし上に持ち上げるようにする。
そして骨盤を前に倒すようにして、からだは後ろに少し凭れるようにするのですね。
そうすると腰が少し反り、ちょうど骨盤と坐骨のうえに重心がのって、背筋や腹筋をほとんど使わなくてもピタっと垂直に上体が定まるのでした。
なぜかアゴも自然に引けて胸も開き、なのに息苦しくない。
そしてこの姿勢が「はまる」と、腹式呼吸がものすごくやりやすくなります。
とくに意識をしなくても下腹に息が落ちて、わりと深い呼吸ができるようなのでした。
なるほどこういうことか、と思って続けていくうちは、あの18分が非常に短く感じるのでした。
「えっ、もう!?」
みたいな。
きっと腹式呼吸ができるようになって集中するようになったんだろうな、と思っていました。
90日を超えたぐらいから、もう意識しなくても姿勢はまっすぐになるようになってきました。
するとどういうわけか、時間が逆に長く感じるようになったのですね。
時間が短く感じていた頃は、逆に「集中していなかった」のかもしれないな、と思いました。
というのも、べつに坐禅に限らず、時間があっという間に過ぎるときというのはあります。
それはだいたい「考え事をしているとき」なのですね。
以前ぼくは、姿勢を正すことをいっしょうけんめい「考えていた」のだと思います。
力の入り加減やからだにかかる負荷の強さや場所などを、ずっと観察していました。
つまり、考え事をしていたために、時間が短く感じていたのではないか。
最近はもうあまり考えなくても姿勢がまっすぐに「なってしまう」のです。
せいぜいたまにほんの少しアゴが出ている感じがして、それを正すぐらいです。
そしてそれを正したら、当分そのままになる。
つまり「ヒマになってしまった」。
時間が短く感じていたことが「良い」わけではなかったのかもしれません。
なにもせず、でも眠らず、とくに何も考えない……考えてみればこんなもん、時間がむちゃくちゃ遅く流れるように感じてあたりまえです。
だってヒマなんだもの。
だからもしかして、最近妙に長く感じるようになったのはこれはこれで当然なのかな、と思いました。
姿勢を四の五の考える段階は終わって、そろそろ坐禅の本丸であるところの「安那般那念」すなわち、今私は息を吸っている、今私は息を吐いている、そんなふうに「現在の状態をそのまま眺める」という段階に進まねばならないのかもしれません。
ていうかほんとうは、最初からそっちに行くべきだったのかもしれませんが……。
ただ今回ぼくは「禅のえらいお坊さんが言っていることを、ばかみたいに素直に守る」ことをテーマにしていました。
本やネットで得た知識で自己判断するのではなく、「姿勢をちゃんとせい」というのなら、ばかみたいに「はいっ、わかりました!」。
「掃除を毎日せい」というのなら、ばかみたいに「はいっ、わかりました!」。
もういちいち、ほんとうはこうじゃないか、こうしたほうが効率がいいのではないか、そんなことは考えないことにしたのでした。
だからこれはこれで、良いのかもしれません。
そもそも、今日の坐禅が良かったか悪かったか、そんなことはどうだっていいそうです。
今日は長く感じたな、それならば、それでよし。
今日は短く感じたな、それならば、それでよし。
今日は集中できなかったな、それならば、それでよし。
いちいち「改善」「向上」なんか考えず、ただただ、ただただ、毎日坐る。
坐ることそのものが、悟りである。
悟りは無限なのに、ゴールなどあるものか。
……っていうのが「只管打坐」なんだそうです。
だからまあ、あんまりウジウジ考えないようにしよう。
長く感じる坐禅も、また坐禅。
考えることや上達することではなく、今日も坐ることこそが一大事である。
これはこれで、いいのだ。たぶん。