この3連休はヒマだったので、久しぶりに勉強がてらLinuxで遊んでいました。
仕事場のファイルサーバーは自分で構築したUbuntuサーバーで、会社のHPはVPSでCentOSというLinuxを使っています。
またWebサイトのテストでDockerを利用してローカルにWebサーバーを立てたりもします。
つまり仕事上はサーバー用途でのLinux利用がほとんどなわけで、今回はデスクトップ用途としていろいろ触ってみようという意図でした。
デスクトップ用途としてのLinuxはもはや斜陽であるというのが一般的な動向のようです。
そしてぼくも今回まさにそのように感じました。
以前は「VoyagerLinux」というディストリビューションに痛く感動して、もうWindowsは必要なくなるんじゃないか、これで十分じゃないか、とさえ思いました。
それほどに最近のデスクトップLinuxは高度な進化を遂げていて、メジャーな有料OSにかなり近づいてきているのでした。
今回試してみたのは以下のOSでした。
・Ubuntu
・CharletOS
・ZorinOS
・FerenOS
・elementaryOS
・Arch Linux
・Manjaro Linux
やったなあ。いっぱい入れたなあ。あほちゃうん。
ちなみにぼくはLinuxは仮想環境ではなく実機に入れるタイプで、その実機はHPのHP290jpという約10年前のパソコンです。SSDに換装してWindows10が現役で動いており、1台余計に内蔵HDDがあるタイプなのでデュアルブートさせています。
Linuxを入れるHDDのほうにブートローダーを仕込めば安全にデュアルブートができるのでありますね。
さていろいろ使ってみたところ、個人的にはManjaro Linuxがいちばん性分にあっていました。
ていうかほんとうはArchLinuxを入れてそれにGnomeを載せてデスクトップを構築しようとしていたのですが、どうやらHP290jpのグラフィックカード(Nvidia GTX200)が古いため、ドライバがもう通常の方法ではDLができずXwindowsysytemさえ動かないのでした。
しょうがないのでArchの派生であるManjaro(Gnome3版)を入れてみた、という感じです。
しょうがなく入れてみたものの、その完成度にビックリしましたね。
非常にシンプルかつスタイリッシュで使いやすい画面構成になっています。
今現在このManjaroからブログを書いていますが、ふとLinuxを使っていることを忘れてWindowsかMacで作業をしている錯覚に陥るぐらいです。
まあそれはGoogleChromeを入れたことが大きいのかもしれませんが、そもそもかなり安定していますし動きもキビキビしています。
VLCを入れればDVDのISOも見られますし、Chromeを入れたらAmazoPrimeとNetflixも視聴可能です。
普通に使うぶんにはまったくもって問題ありませんでした。
「普通に使うぶんにはまったくもって問題ない」というのは、今回試したほかのOSも全部そうです。
とくにZorinOSはWindowsとよく似たUIで日本語も最初から使えます。
FerenOSもZorinとほぼ同じぐらい便利でした。
個人的にはZorinよりも使いやすいような気もしますが、まあ似たようなものです。
Zorin・FerenあたりはLinuxの中で最も使い勝手のよいOSの部類なのだろうと思います。
elementaryOSはMacみたいなレイアウトでシャレオツです。これもかなり使いやすいです。
しかしぼくの環境では若干不安定なことがあって、それはぼくの設定がおかしかったのかもしれません。
最も有名なUbuntuは、さすがに便利です。
アプリケーションも一切コマンドを使わず直感的な操作でインストールができるので、ほんとうの意味でメジャーOSに一番近いといえるのかもしれません。
しかし・・・
しかしどうにも腑に落ちないのは、その色彩感覚なのだなあ。
頭おかしいんかワレ
と言わざるをえない配色なのでありますね。
これは芸術的とかじゃなくて、つまりあれだ「病気の色」ですよねえ。
なんか見ているとほんとうにビョーキになりそうな気がしてくるし、こういう配色をしようと思うその哲学が合わないので便利だけど速攻でアンインストールしました。
使い勝手や利便性はいちばん大事だけど、色も大事だよねえ。
色がもたらす心理効果っていうこともOSの設計者には考えてほしいなあと思います。
チャレンジとか変革とか独自性とかそういうしゃらくさいことを意図しているのかもしれないけど、それは結局作り手側の目的なのであって利用者側の目的ではありませんからね。
そういうエゴイスティックな思想が配色にもあらわれているのでは、とさえ思ってしまいました。
思想的に合うという点でも、ぼくはArch系のManjaroがいちばん気に入っています。
大本のArchLinuxというのが本来「無駄を省きシンプルさと美しさを追求する」っていう思想なんだそうで、無駄なパッケージは一切含めずコード類もかなり美しく書かれているのだそうです。
Wikipediaにもこうあります。
Arch Linuxは、シンプルで無駄の無いシステムに焦点を当てており、ユーザを支援するために行なわれている努力はグラフィカルインタフェースの提供ではない(たとえば、パッケージマネージャのグラフィカル・フロントエンドは公式に提供されていない)。その代わりに、「素早くアクセスして編集できるように配置され、簡明なコメントが付けられた、きれいで能率的な構成ファイル群が整備されている」としている。
つまりようするに「質実剛健」なのでありますね。
いいなあ、そういうの。
リッチで便利で色っぽい足し算の方向性ではなく「引き算の思想」が禅的でいいなあと思います。
Manjaroはそういう意味では純粋なArchLinuxの思想とは相容れないところもあるのかもしれませんが、配色がわりとカラフルなのに妙に落ち着いているのがぼくの好みにぴったりです。
不要なアプリも一切入っていなくて、最低限のものに絞られているようです。
と、これだけデスクトップLinuxを触ってみて感じたのは、
「デスクトップLinuxは斜陽であるというのは、ほんとうだ」
ということでした。
WindowsやMacとの差異が縮まるほどに、かえってLinuxの魅力はなくなってしまうのです。
あえて不便で使い勝手のわるいデスクトップLinuxを好むのはある程度知識がある人だけで、それほどパソコンに縁がない多くの人はMacやWindowsを使います。
さらに最近はスマホなどのモバイル端末も普及していて、PCへの親和性が低い人はどんどんそちらに流出しています。
ということは、もうこれ以上デスクトップLinuxの市場的な必要性は高くならない。
デスクトップLinuxの魅力は「どんどん進化していく成長過程」だったのかもしれないです。
成長の臨界点が結局WindowsやMacと同じレベルなら、もうそろそろ熱死を迎えるということになる。
デスクトップLinuxについてはこんな名言を述べたひともいます。
「Linuxは使うことではなく、インストールすることに意義がある」
言い得て妙でありますね。
成長し続けるところに魅力があるということは、成長しきってしまえばその使命は終わってしまうということであります。
成長する姿ではなく現実的な用途に魅力がなければ、斜陽はとつぜん訪れる。
人間とよく似ているかもしれません。
もういいかげんいい年のくせに、いつまでも若ぶって成長成長言っている人に限って現実的な使いみちがない。
成長することを主な目的として、人の役に立ってこなかったからです。
成長のスピードは遅くても、あるいはほとんど成長していなくても、いまその場所で誰かの役に立っていることこそが人にとっても、機械にとっても、いちばん重要なことである。