最近は庭の手入れをよくやっているのだが、炎天下で大汗をかきながらクワを振り回したりしていると、よく挨拶をされる。
中学生ぐらいの女の子で、いつもニコニコしながら「こんにちは!」と声をかけてくれる。
おそらく、ぼくの家の前の道が通学路なのだろう。
ぼくが中学生だったころの中学生たちの多くは、そんなに礼儀正しくなかったと思う。
礼儀が良くないというよりは「柄がわるい」といったほうが良いのかもしれない。
当時は「オッサン狩り」などと称して罪もないオッサンを集団リンチして金品を奪い取るような中学生がたくさんいた。
そんな時代と環境で成長してきたぼくは、にこやかに明るく挨拶をしてくれる中学生に出会うと、すこし動揺してしまうのだ。
どう対応したらいいものか、一瞬戸惑う。
考えるまでもなく、当然こちらもニコニコして「こんにちはー」と返せばそれで良いだけの話なのだけれども、そんな「さわやかな」中学生に挨拶をされた経験がほとんど皆無のぼくは、一瞬身構えるような気分になってしまう。
人間は身構えると眉間にシワが寄りがちで、睨みつけるような顔になる場合がある。
そんな状態で「こんにちは」と言ってしまうと、相手を怖がらせてしまう可能性があるではないか。
そこでぼくは瞬時に膨大な数の行動選択肢を脳内に生起させ、その中から現在において最も最適であろう行動を選び、それを実行しようと試みるのであるが、しかしそんな多数の選択肢から最適解を選ぶ時間も能力もなく、結局はほとんど反射的な行動をしてしまう。
作業中であっても突如起立し、上体を相手に45度傾け、腹から声を出して「こんにちは!」
すなわち「軍事仕様の挨拶」である。
これは長年体育会で刷り込まれた仕様で、中高生の頃は先輩に出会ったときそのような敬礼を行わないとぶん殴られていたので、心身に刷り込まれてしまったのだろう。
混乱すると人間は最も刷り込まれている行動をしてしまうものなのかもしれない。
そこでぼくは「しまった」と思った。
よりにもよって、相手は中学生の女の子である。
眉間にシワを寄せて睨みつけるような顔で「おう」などとぶっきらぼうに対応するのも確かに怖いだろうが、かといって突如軍事式敬礼のように規律正しい慇懃な挨拶礼をしてくるのは、ある意味で別の怖さがある。
かんたんに言えば、「へんなおじさん」である。
否が応でも毎日通過せねばならぬ通学路に、挨拶をしたら突然ヤクザまがいの敬礼をしてくるへんなおじさんが住んでいる。
これは、かなりコワイのではないか。
しまったなあ。
……などと後悔したものの、そのときの彼女の対応は、ぼくの人間性のレベルをはるかに凌駕する高次元の行動であった。
「ウフフ」
ただ微笑んで、スーと通過していったのである。
そのときぼくは、心の中で独白した。
負けたっ!
何が、とか、何に、とかいうのはよくわからないのだけれども、負けた、と思った。
そうかそういう手があったか。
これはまるで柔術でいうところの「合気」のようだ。
抵抗するでもなく逃げるでもなく、ただ「いなして」しまった。
この日オッサンは、中学生に負けたのだった。
そして今日、ぼくはまた彼女に負けた。
負けて、泣いてしまった。
今日はしばらく大雨だったけど、そのときは雨が止んでいた。
郵便局に用事があって家を出たとき、ちょうどまた例の中学生が通りかかって挨拶をしてくれた。
今回はさすがにぼくも「ふつうに」こんにちは、と挨拶をした。
向かう方向はたまたま同じで、ぼくは彼女のうしろを数メートル離れて追う格好になった。
途中下りの階段があってそこを降りていくと、彼女はその最下段で立ち止まり、急にぱっと真っ赤な傘をさした。
もう雨はやんでいるのに、なんだ?
階段の上のほうから見ていると、彼女は衝撃の行動に出たのだった。
大雨の影響で階段の横手の壁から小さな滝のように水が勢いよく流れ出ているところがあったのだが、彼女はそこに開いた傘を差し出して水に当てていた。
傘に水が当たる、心地よい音が響いていた。
その横を通過するとき、彼女は目を細めながらぼくのほうを振り向いて、言った。
「ウフフ」
そうなのである。
彼女は「流れ出てくる水に傘を当ててみたかった」のだ。
それ以外にはおそらく、とくに理由はないのだろう。
バババババ……と水が勢いよく傘に当たる音を楽しんでいた。
どういうわけか、ぼくはこのとき、ぐっと来て、涙が出そうになった。
そうだった。
ぼくも子どもの頃は、こんなふうな何気ないことでも、ずいぶん楽しめていた。
ぼくは今日、なぜ郵便局に向かっていたか。
使っていたほぼ新品のハードディスクが唐突に壊れ、朝から難渋していた。
結局故障であることがわかり、ある種のクレームを企業に入れたところ交換してくれることになり、返品のためにその商品を郵送するためだった。
保証期間内だったので、返品交換は当然のことではある。
だからぼくが今日いっしょうけんめいにやっていたのは、「困る」ということと、「怒る」ということだけだった。
そこに「よろこび」はなかった。
一方、あの愛想の良い中学生の女の子は、雨上がりの臨時の小さな滝にお気に入りの赤い傘を当てながらその音に「ウフフ」と喜んでいた。
どっちが「高等」だろうか。
どっちが「しあわせ」だろうか。
いつの頃からか、ぼくは「得をすること」「損をしないこと」をだいじにするようになった。
それと同時に、ぼくはいろんなものが、見えなくなった。
庇の雨だれの輝きとか、
動き続ける雲のかたちとか、
行進しつづける蟻の行列とか、
木漏れ陽の炎のようなゆらめきとか、
フェンスを傘で叩いたときの高い音とか、
モルタルの階段のひび割れから生えている雑草とか、
どこにでもある、なんでもない、些細なことには、もう喜びを感じられなくなってしまった。
はたしてこれを「成長」と呼んでいいのかどうか。
「得をすること」「損をしないこと」に敏感になり、天地の笑顔が見えなくなったことを、はたして「大人」と呼んでいいのかどうか。
ただ劣化しただけなのではないのか。
雨上がりの流水に赤い傘で戯れる彼女が、まるで天使のように見えた。
このことを家に帰って家族に話したところ、
「ああ、あの子な。最近ではめずらしい、天使みたいに無邪気で可愛い子だなあ。」
家の者もみんな知っていたようである。
あしたからは、もう大丈夫だ。
にっこり笑って、こんにちは、と言おう。
天使への最良の供物は笑顔であるが故に。