こころの病というのはつまり「ま、いっか」が一切できなくなってしまう病気といえるのだと思います。
パニック障害だのウツだの自律神経失調症だの強迫神経症だのいろいろというけれど、ようするに「ま、いっか」と思えないことが増えすぎている。
真面目だとか神経質だとか繊細だとかいうコトバに騙されると「ま、いっか」から、どんどん遠くなってしまうんですよね。
「真面目な性格を治すことに、真面目に取り組もう」
「神経質な性格を治すため、丁寧に自己を観察しよう」
「繊細さを治すため、自身の微細な変化にも気づくべき」
いやいや、待て待て、何をやっとるねんな!
絵に書いたような矛盾をふつーの顔をしてやってしまうのでありますね。
そんな態度で治るわけねえっつうのっ。
指向性を変えずにいくら努力したって、指向性の枠の外には一切出られないのでありますね。
これを「不自由」という。
潔癖症の人も、つまりは多少の汚れについて「ま、いっか」ができなくなってしまっている、ということなのですよね。
人が触ったモノを触れないということについて、理由としては疫学的な理由を賢そうな顔をしていろいろというけれども、ようするに不衛生かもしれないことを「ま、いっか」と思えないことが最大の原因。
ほんとうはじぶんだって、相当汚いのにね。
「わたし以外は全員不潔」みたいな、あきらかに誤った世界観に奴隷化されて支配されている。
いやいや、おまえもきたないの!
あのオッサンと、基本的にはいっしょなの!
このへんのことについて「それは心理的拒否反応の代償行為なのである」みたいな社会心理学的な賢そうな解釈を持ち出してみたところで、結局どーしよーもない。
ようするに「ま、いっか」が足らないのでありますね。
ま、いっか。
これを口癖にしていくと、案外変わってくるんですよね。
なにかあったら、ま、いっか。
努力をしすぎないようにするとか、積極的に休むとか、難しいことを考えないとか、強い欲望を捨てるとか、そんなハイテクノロジーなこを目指したところで根っこが変わっていなければなーんも変わらない。
ま、いっか。
変わらなくても、ま、いっか。
治らなくても、ま、いっか。
Whatever.
Who care that?
それがどうした。
それ系のことを、ことあるごとに「言う」っていうのが、結局いちばんの近道なのかもしれませんね。
近道じゃなくても、この考え方が間違っていても、
ま、いっか。