とんでもないことを発見したのであります!
これはもう「大発見」といっても過言ではないかもしれません。
ここ数年のぼくの行動を分析してみると(分析というほどではないが)、たったひとつの共通項が見えたのであります。
それは、
目的がないときこそ、最大効果を発揮する
ということを。
まずは、禁酒。
ぼくはかつてウワバミがごとき大酒飲みでしたが、昨年の3月以降ほんとうに1滴も飲んでいません。
やめよう、と思ってやめたのではありません。
なんかしらんが、べつにいらないかな、と思った。
健康にわるいからとか、禁酒は健康にいいからとか、パニック障害を治すためとか、ダイエットのためとか、そんなのは一切まったくありませんでした。
ただ、やめた。
そうしたらほんとうにやめてしまって、こうやってお酒の話を書いていても全然飲みたいと思いません。
やめたのではなく、たぶん「卒業」をしたのだと思います。
座禅。
きょうで150日めになりますが、全然がんばっていない。
「ただ、すわる」
ということだけ考えていて、これも健康のためとか、集中力がどうとか、パニック障害を治すとか、そんなことは一切考えていませんでした。
「座禅に功徳なし」
なぜかこの一言がズキューンとぼくの心をうって、そうか、じゃあ座ってみようか、と思ったのです。
なにかに「効く」から座禅をしよう、ではなかったのです。
じつは数年前、座禅を日課にしようと画策したことがあります。
でもそのときは1週間ぐらいしか続きませんでした。
パニック障害を治そうとか、精神力を高めようとかいう「目的」を持っていたのです。
しかし皮肉なもので、「目的を捨てた」ときのほうが20倍以上継続しているのでした。
ウォーキング。
これもかつては「一日一万歩を連続100日」をしていました。
確かにそのときは、連続100日達成をしたのです。
しかしその後、リバウンドというかなんというか、ほとんど歩かない日が1ヶ月以上続いたりして、あんまり意味がなかったのでした。
しかしこれも「健康のために」などという目的は捨てて、「ヒマなときに歩く」というふうにしたら、当時の「連続100日」のときよりも圧倒的によく歩くのでした。
ダイエット。
痩せよう、痩せようと思って、いろいろ試してきました。
しかし禁酒と同時になぜか痩せ始めて、現在は64kgという「いちばんちょうどいい体重」です。
これ以上痩せたら、ぼくのばあいはちょっと痩せすぎなわけで、若干心配になります。
いつ測っても64kgプラスマイナス500gぐらいでびたあっとハリは止まっている。
痩せようという目的を捨てたほうが痩せて、またリバウンドもしないのです。
そこでぼくは、忽然と気がついたのです。
目的を阻害するのはいつも目的である
という非常に皮肉な公式に。
健康を志向するほどに病む。
痩せようと思うほど太る。
禁酒しようと思うほど飲んでしまう。
落ち着こうと思うほどに落ち着きを失う。
眠ろうと思うほど目が冴える。
三日坊主をしないでおこうと思うほど三日坊主になる。
きっとタバコもそうなんだろうな、と思ったのです。
禁煙に関してはまるでバカの一つ覚えみたいに以下の方式ばかりなのです。
・自分や周囲が病気になるぞという脅迫系。
・やめたら何円儲かるというケチクサ系。
・ログを残して何日続いたかという達成感押し付け系。
・かっこ悪いというイメージ系。
・とにかくやめろという根性論。
このへんのことは、何十回と試してきました。
でもひとっつもうまくいかなかった。
だから、こういうことです。
禁煙は理屈ではない。
理屈ではないから、理屈ではやめられないのでしょうね。
理屈ではないということは、目的という演繹的で高度な理屈も通用しないのかもしれません。
○○のために、なんていうのはむしろ逆効果なんだよなあ。
ほかのことと一緒で。
なんのためにやめるか?
ではなくて、
なぜ吸うのか?
のほうが、大事なのかもしれませんね。
あんなもの、無用の長物の代表格のようなものです。
喫煙者はべつに全員バカというわけではないはずなのに、それでも吸う。
ということは、そこになにか原因があるはず。
依存だという医学っぽいザッパな言葉でケムに巻いてしまうのではなく、ちゃんと観察をしてみよう。
吸いたくなる理由が、きっとあるはず。
観察してみると、結局は「かんちがい」なんですよね。
お酒とおなじで、タバコは人をしあわせにはしない。
禁断症状が癒やされたので、それを幸せと勘違いしているだけです。
じぶんでアタマをドついてヨシヨシしているようなもの。
ヨシヨシされたいがために、きょうもまた、じぶんでアタマをドつくのか?