子どもを見ていると、思うことがある。
「子どもは自由で、いいなあ。」
いや実際には、子どもにもじつはいろいろと制約があって、必ずしも自由とはいえない。
しかしどういうわけか大人からすれば、子どもはとても自由に見えてしまうことがあるものだ。
なぜそう感じるのかということについて、大人側の嫉妬やストレスであるとか、あるいは子どもの思考の柔軟性であるとか、子どもへの社会的な許容文化であるとかにその論拠を求めようとすると、だいたい泥沼にはまる。
結局はその方向性では、納得がいく回答はとくに得られないからである。
しかし全然べつの見方をすると、納得できそうな気がすることがある。
「自由とは正しく支配されることである」
とくに子どもを羨ましく思うことのひとつに、「眠くなったら眠る」という非常にストレートな行動が可能なところが挙げられる。
「育ち盛りなんだからしっかり眠りなさい」というような「周囲からの睡眠への許容」がある、ということだけではない。
彼らはどれだけ神経が興奮していたとしても、眠くなったらストンと眠ってしまう。
たとえばぼくの娘は幼少の頃絵を書くのが好きで、興奮気味に嬉々としてクレヨンなどで絵を書いていたと思ったら、気がつくと完全に寝落ちしていることがよくあった。
大人なら、まずこういうことにはならない。もしそうなったら一種の病気である可能性さえある。
大人の場合、好きなことをしていると「つい眠ることを忘れてしまう」ということがある。
大好きな映画を見ていたら寝不足になってしまったなどということは、誰にもある経験だと思う。
またいっぽうで、日中にイヤなことやショックなことがあるとまた、大人は眠れなくなってしまうことが多い。
しかし子どもたちは、非常につらいことがあったときでも眠くなったら眠ってしまうのである。
なかには大人でも、そのような人は意外といたりする。
不眠症なんかとはまったく無縁で、日中にどれだけストレスがあろうが、心配事があろうが、夜になったらキッパリ眠れてしまう人というのは実在する。
じゃあ、そういう人は精神的に幼稚なのかというと、そうとは限らない。
むしろ「大人らしい大人」こそがそういう人であることも多く、あるいは「幼稚な大人」こそがかえって眠れない眠れないと騒ぐのをよく見るものである。
どういうことなのか。
このことを「アダルトチルドレン」などという側面から考えるとまた、泥沼にはまる。
精神の成熟性と睡眠の自在性にもまた画一的な関係性はなく、この角度からでも納得のいく回答は得られない。
「支配に対する拒否感」というものが存在するような気がする。
どうも一部の人間は、支配されるということについてアレルギー的な拒否感情を持つようである。
「支配される側にはなりたくない」とか、あるいは「支配とは自由の対義語である」というような価値観を持っている。
はたして、これはどういうことなのか。
支配・被支配ということについて、聖書を読んでいると感じることがある。
キリスト教というのはペテロ教、またはパウロ教のことなのではないか、と。
おそらくキリスト教成立の初期段階に編纂されたであろう「福音書」は、その思想については不思議に仏教と似通っているところがある。
しかし「使徒言行録」や「ローマ信徒への手紙」あたりから、福音書ではそれほど強調されていなかった観念が強調されてくるのである。
そのひとつに「肉体を忌み嫌う」という方向性がある。
人間は「天に由来する霊」が「土に由来する肉体」に支配されていているとでもいうような観念で、死ねば朽ち果てて土に還ってしまうような「有限存在」である肉体ではなく、永遠性を持つ「神の霊」にこそ支配されるべきであると述べているところが散見される。
このような観念は福音書群ではあまり強く感じられないが、使徒言行録以降では強調されているように見えるのである。
思うに、これは元々のユダヤ教、あるいはペテロやパウロの思想なのではないか。
イエス様は子どもたちを指して「天の国とはまさにこのような者たちのものである(マタイ:19-14)」と言ったり、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない(マタイ:18-3)」と言ったりしている。
ここでいう子どもというのが「素直である」ということを指しているのは明らかだが、もうひとつ意味があると思う。
「正しく支配されている」
ということも、意味しているのではないか。
子どもがなぜ、辛いことや悲しいこと、あるいは興味関心があることに接していても、すなおに眠り、すなおに食べることができるのか。
それは「肉体に正しく支配されている」からではないか。
この日本においても「本能に忠実であることは罪」というような観念が蔓延しているような気がする。
眠くても我慢して仕事や勉強をするとか、食べたいものを我慢して健康に良いものを食べるあるいは節食するとか、辛くても頑張って運動をするとか、そういうことを「善」とする傾向が少なからずある。
それぞれの観念にはもちろん「自己実現」や「健康維持」などの明確な目的があるが、じつはそれだけではなく「肉体に精神が支配されるのではなく、精神が肉体を支配せねばならない」というような観念が根深く横たわっているように思う。
精神を病み、不眠症や摂食障害等に陥る人の多くが「真面目で向上心が高い人」だという事実からして、この「支配・被支配」の観念こそが不自由を生んでいるのではないかと思うことがある。
根本的な部分で、「支配されること=悪」という「誤った」観念を、どこかで植え付けられてしまったのではないか。
むかし一世風靡をした尾崎豊の「卒業」という歌にも「仕組まれた自由……この支配からの卒業」というような文句があり、この部分に強い共感を覚えた人も多かったらしい。
支配されるのは、不自由であり、悪である。
そのような「誤った」観念があったのではないか。
なぜ誤っているのか。
人間はどれだけ自由になろうとも、この肉体の支配を逃れることはできないからである。
もし仮に人間が肉体と霊という複数のパーツに分かれており肉体の消滅後には霊だけが残るという説が正しかったとしても、
肉体がいずれ消滅するという事実は変わりなく、肉体と霊が共存していた状態そのものは有限であるという事実も変わらない。
またもし仮に肉体を完全征服し、その支配から脱却できたとしても社会構造からの支配、物理法則からの支配、自然摂理からの支配、何よりも「自分自身の観念による支配」からは逃れられない。
結局人間というのは、生まれてから死ぬまで「何か」に支配され続けていて、その支配から自由になる時間は一瞬たりともない。
つまり「支配・被支配」という考え方は、完全なる妄想の一種といえるのかもしれない。
なのにこの妄想のようなことに囚われて、「わたしは肉体の支配に負けてはいけない」などという、さらなる妄想を加速していくのもまた人間の姿である。
そんなこと、どーでもえーやんけ。
というのが、最も正しい理解だといえる。
支配、被支配などという妄想を「まだ」持っていないから、子どもは自由に見えるのかもしれない。
支配の影響を受けていないように見えるから、猫は自由に見えるのかもしれない。
しかし実際には、子どもも猫も、強大なる天地自然の摂理の支配下で生きている。
彼らはじつは「自由という妄想」から自由なだけであって、とくになにも自由ではない。
だから思ったんである。
どうせ支配されているのであれば「ただしく支配」されれば良いのではないか。
「支配に打ち勝とう」とするのではなく、「すなおに支配される」で良いのではないか。
すくなくとも、わが肉体を敵視しその支配に抗う努力をするよりも、
この肉体にただしく支配される
という努力をしたほうが、良いのではないか。
すなわち、眠くなったら、できるだけすみやかに眠れ。
眠くなければ、眠らんでもよい。
腹が減ったら、できるだけすみやかに食え。
腹が減ってないのなら、食わんでも良い。
痛かったら、苦しかったら、無理すんな。
先生や上司やお客さんは、ぼくを完全に支配することはできない。
仮に肉体や行動は拘束することはできたとしても、精神まで支配することはできない。
しかしこの天地自然の摂理は、この肉体を完全に支配しており、この支配された肉体はまた、ぼくの精神を支配している。
ぼくを本質的に支配している者と、
形式的にしか支配できない者の、どちらに「したがう」べきであろうか。
そんなもん、考えるまでもないことである。
ぼくは、もっとも恐れるべき者を恐れ、したがうことにする。
なーにが「本能の誘惑に打ち勝つ」じゃあ。
「出世したい」「お金がほしい」「有名になりたい」「成功したい」「勝ちたい」などという本能には、ずたぼろに負けておるくせに。
いったい、どの口がいうんじゃ。
なにを考えとるんじゃ。
明日の天気さえもまともに支配できんようなものが、なんで自分を支配できると思うんじゃ。
「おまかせしまーす」で、いいんだよなあ。
眠くなるのも、おなかがすくのも、痛いのも、「かみさま」のはたらきである。
人間はそれに、子どものようにすなおにしたがっておれば良い。
天の国には、子どものようでなければ、入れないのであるから。
これをわが国では古来よりいわく、
かむながら、たまちはえませ。
支えて配って
… いただきましょう
って
˘人˘*
そういえばたしかに「支えて配る」って、いい感じの意味ですよね。
でも「支配」いう言葉には強制的なイメージがあって、なんでだろう?
と、しばらく考え込んでしまいました。
いくら調べても、出てきませんね・・・
で、なんとなくわかった気がしたんですけど、これまた日本語特有の「主語・目的語の省略」なんでしょうね。
もともとは「こちらの権力や影響力を」「枝のように分かれさせて」「相手に到達させる」という意味があったのかもしれません。
あるいは「対象に自身の持ち分を分配させて、それによってこちらを支えさせる」というような、税金的な意味があったんじゃないでしょうか(こっちはちょっと強引ですが)。
いずれにせよ英語に訳せば「controll」なので、相手を支えてあげるとか、みんなで仲良く分け与えるとか、そんなメルヘンチックな意味は元来なかったのだろうと予測します。