パニック障害というのは「死をおそれる病」だといえます。
いろいろな症状も、たしかにつらい。
でも、そんな症状をさらに強化してグレードアップさせているのが、「死」というものへの恐怖です。
死を恐れるのは、あたりまえ。
ぼくはイヌになったことはないから、イヌの気持ちはわからないけれど、たぶんイヌだって死ぬのは怖いと感じていると思う。
生きているもの、あるいは、生きようとしているものは、死への恐怖は多かれ少なかれ持っていると思います。
気になったことが、あるのです。
パニック障害というのは、先進国や欧米に、ものすごく多い。
アジア圏や田舎のほうには、あまり見られないようなのです。
まあ先進国以外は医療が発達していないし、お医者さんも少ないから、統計が取れてないだけなんじゃないの、というのはあります。
もしそうだとしても、日本と欧米諸国では医療の水準は同程度なはずなのに、ヨーロッパ圏は日本以上にパニック障害が多く、アメリカなんかは日本の3倍もパニック障害の患者がいるとなると「なにかあるのでは」と、思います。
もしかすると「キリスト教的死生観」というのもあるのではないのかな、と思うのです。
パニック障害を強化しているのは、死への恐れである。
これはたぶん、まちがいのないことなのですね。
となってくると「死への恐怖が強い文化」というのもあるのでは、と思ったのです。
キリスト教では、人間は死ぬと天国か地獄へ行くことになっています。
いいことをした人は天国へ、わるいことをした人は地獄へ行く。
輪廻なんか、ないのです。やりなおしは、ない。
だからいったん地獄にいったら、この世の終わりまで、ずっと地獄なのです。
さて、この発想は、どうでしょうか。
「よいこと」の定義が、とてもむずかしいと思うのです。
わたしは、絶対に天国へ行けるような人生を送ってきた。
いまわのきわに、そんなふうに自信を持って言える人は、たぶん少ないのではないでしょうか。
なぜならば、人間とは、まちがう生き物だからです。
そしてまた、キリスト教というのは、とても倫理観が厳しいです。
とくにプロテスタント系は厳しくて、強欲、傲慢は、最大の罪です。
しかし欧米では、実際には強欲傲慢はむしろ推奨されているところもある感じで、もしかしたら伝統と現実の間に決定的な矛盾を抱えてしまっている可能性もあります。
すくなくとも、自由経済というシステムは、ひとの強欲に頼らなければ回るようにできていません。
潜在的に「死後への恐怖」つまり、地獄におちてしまうのではないかという不安を抱えている気がするのですよね。
いっぽう日本は、どうでしょうか。
日本は伝統的には仏教国ですが、輪廻転生を心から信じているひとというのは、あまりいないような感じがします。
日本においては、キリスト教というよりは「科学」が、いわば人々の死生観を定義をしている部分があります。
そしてこの科学では、いまのことろ公式に死後の世界を定義できていません。
あるとも言えないし、ないともいえない。
しかし現実的には、死んだらそこで終わりという価値観が、おおむね浸透しているような感じがします。
そうなってくると、ふつうは、疑問に思うはずなのです。
いつか死んでしまうのに、どうして今生きていかなくてはいけないんだろう、なんのために生きているんだろう
人類全員が、まちがいなく経験するであろう「死」。
これについて、科学はなにも、答えを持っていません。
せいぜい生態系や食物連鎖がどうのこうのというシステムの話になるのがオチで、生身の人間の「感情」への答えにはなっていません。
怖いものは、怖いのです。
怖いのは、それがなんなのか、さっぱりわからないから。
このことも、多分にあるような気がするのですよね。
そこでぼくは、仏教の「輪廻転生」というのは、じつはとても論理的に優秀な定義なのではないか、と思ったのです。
もし死んだとしても、もういちど、生まれ変わることができる。
やりなおし、リセットが可能。
よいことをすれば、よりよい環境にうまれることができる。
この発想は、歴史だとか宗教だとか検証可能かどうか、そういう話はさておき、自然発生的に生まれた「死への恐怖をやわらげる解釈」なのではないか、と思うのです。
死んでもまた、この世に生まれることができる。
これが事実だとしたら、すこし安心ではないでしょうか?
ほんの少しだけでも、死についての恐怖や不安が、やわらぐような気がするのです。
たとえばぼくの両親は、いまはとても元気です。
そして、家族みんな、仲が良いです。
だからこそ「いつか必ず死んでしまって、お別れすることになる」と思うと、たいへんいたたまれない気持ちになります。
かなしい。
しかし、もし「転生」というものが、あるのだとしたら。
ぼくはまた、同じ両親の魂のところに、生まれたいです。
今生ではいったんお別れだけれども、また来世で、親子という関係でなかったとしても、また別の形で会えるかもしれない。
その「可能性」が示唆されるだけでも、かなりの安堵感を得ることができます。
それは、ちがう。
「死んだら、もう終わり」。
そうなってくると、かなしみは、倍増します。
なにも救われなくて、断念するしか、道が残されていないからです。
生きている意味さえも、見失いそうになる。
じつはパニック発作じたいが「もう終わりの恐怖」でもあるのです。
もう、終わった。もう、死ぬ。
terminated.
イッツ・オーバー。
そういう思いがあるからこそ、発作は、非常に強力なものになります。
でも、もし「終わり」なんてものは、なかったとしたら……。
いったんの「区切り」はあったとしても、いのちは連綿と永久に、続くのだとしたら。
今生で出会った人とは、またいつかどこかで、会える「かもしれない」としたら。
いちばん恐れているラスボス、死というものが、すこしだけ「打倒可能」に見えるような気もします。
もちろん「気分的に」ですが。
ひとには、敬意を持って接しましょう。
親切にしましょう。
仲良くしましょう。
そういう道徳も、「輪廻」という概念があればこそ、死への恐怖をへらすことができるのかもしれません。
道徳とは、人を嫌いにならないで、好きなままでいるための方法論でもあります。
いやなことさえしなければ、人は人のことを、そんなに嫌いになるものではないからです。
大好きなままでいられたら、そして輪廻があるのだとしたら、そうしたら、万が一死別しても、また会いたいと思えます。
そこには「救い」があるのです。
生きているうちに、みんなと仲良くしていれば、「来世でもまた会いたい」という、希望がうまれる。
輪廻転生という発想は、いまの人生を肯定しつつも、来世まで肯定できる、賢い概念かもしれません。
しかし道徳を無視して、じぶんかってに生きていって、喧嘩上等で生きていくと「もう、お前となんか金輪際会いたくない」というひとが、増えてしまいます。
友人知人、家族がみんなそんな感じになってしまったら、死ぬときには「ほんとうの孤独」になるでしょう。
だれかが死んだとき「ああ、せいせいした」そんなことを考えるひとは、その人が死ぬときにも、だれかにそう思われる可能性が高いです。
また本人も、死ぬときに、先に死んでいった人には会いたくないでしょうし、会わせる顔もないでしょう。
この状態は「どん詰まり」つまり、ほんとうの、終わりです。
今生に戻るわけにもいかず、来世でも居場所がないし、会いたいひともいない。
死を目前にしていっさいの光はなく、大口をあけた真っ黒な「死」という穴が迫ってきて、飲み込まれるだけ。
まわりのひとを、たいせつに、やさしく。
これはなにも、日々を生きやすくするだけの技ではなく、「死の恐怖をやわらげる」方法論でもあるのだと思います。
愛しているひとと別れるのは、つらい。
でも「転生」があるのなら、すこしだけでも、希望の光がみえます。
道徳は、転生とセットになって、はじめてその真価を発揮するのではないでしょうか。
転生なんて、科学的ではない。
検証不可能なものを信じろといったって、それはどだい無理な話じゃないか。
たしかに、そう思う。
でも、こういうふうにも、考えられるのですよね。
そもそもこの世界や自分が現実なのか夢なのか、存在するのかしないのかさえ、論理的に立証することは不可能なのです。
論理的に立証不能な世界における転生という概念について、その存在を論理的に立証を試すことに、いかほどの価値があるのでしょう。
なにをやっているのか、さっぱりわからないです。
いま、確実ここにあると感じられるのは「わたしの感情」です。
それならば、その感情を癒せる仮説を信じることこそが、最も合理的なソリューションなのではないでしょうか。
だれもその存在を立証できないところで生きていながら、立証できないことの存在を信じられないというのは、論理的にすこし、つまづきがあります。
いのちは、永遠につづく。
死んでもまた、あたらしい世界で、死んでいったひとたちとも、いま生きているみんなとも、またきっと会える。
そう考えることに、いったいどんな、害悪があるでしょうか。
この世をただしく、せいいっぱい生きるからこそ、来世にさえも意味と希望がうまれます。
この世もよし、来世もよし。
そうココロの底から信じられるのなら、最強ですよね。
もしほんとうに、今生だけで「終わり」だったとしても。
むしろ、死んだら終わりだからこそ、信じたほうがトクな理屈でもあります。
信じることさえできれば、転生理論には、いがいとスキがないのです。