イライラするって、結局余裕がないっていうことなんですよね。
怒りっぽい人っていうのはだいたいそうです。こころの余裕がない。
神経質なひとって、バカが多いという研究結果もあります。
なんとなく神経質なひとのほうがちゃんとしていて、頭も良さそうなイメージはあります。
でも客観的なテストをすると、いい加減な人のほうが頭が良くて、神経質なひとはあたまが悪いんだそうです。
神経質な人って、よけないことにアタマのリソースを使ってしまって、じつは集中できてないんだそうです。
で、神経質な人って何がわるいかというと、怒るんですよね。
ちゃんとしていないと、怒る。
まじめで、神経質なひとって、怒りっぽいんです。
ここで注意しないといけないのは、そう見えるかどうか、ということではないです。
必ずしも「人に対して怒る」とは限らないんですね。
真面目で神経質なひとって、けっこう常識にとらわれやすい傾向や、臆病な傾向もあるから、いい顔をするんですよね。
いい人を演じようとする。
だから一見怒らない、人間がデキた人のように見えることもあります。
しかしじつはそれは演技で、内部的には怒りを押さえつけていたりする。
人に対して怒らない代わりに、自分自身に怒り始めることもあります。
それが心身症だと思う。
神経質も、真面目も、臆病も、結局は「余裕がない」ということなんですよね。
ほんとうはそれほどこだわらなくたって充分に生活できるのに、なんか余計なところに引っかかってこだわって、自縄自縛していって、かってに怒りをためていく。
だからほんとに、神経質も真面目も臆病も、ザクっというとバカなんですわ。これはお釈迦さんもそう言ってる。
よけいなことにこだわるのはモハ(サンスクリット語でバカの意味)である、と。
「どうしたら余裕を持てるか」よりも「どうしたら余裕を失うことができるか」と考えるほうがわかりやすいときがあります。
どういう考えをして、どういう行動をすると、余裕を失うことができるか。
自分自身に対してでなく、たとえば子供なんかにどういう教育をすれば余裕のない子に育つか、というふうに考えたほうがわかりやすいです。
つまり、どう教育したら、神経質で真面目で、柔軟性のないバカな子に育てることができるか。
たとえば・・・
・時間を守らないと厳しい罰則を与える。
・スケジュールを詰め込ませ、無駄な時間を許容しない。
・正確性を求める。
・計画性を重視させ、休憩時間までスケジュール化する。
・ランダムを許さず、左右対称やグリッド整列、直線、幾何学的形象を強制する。
・整理整頓を強制する。
・清潔を強制する。
・減算方式で採点する。
・ルールを守らないと罰則を与える。
・イレギュラーを許容しない。
・言い訳を許さない。
・失敗を許さない。
・恐怖を与え続ける。
・身動きをとらせず、じっとしていることを強要する。
・人と違うことを責め糾弾する。
・眠らせない。
などなどが、すぐに思いつきます。
共通点は「収斂していく世界観」ですね。
この方法を厳密に使えば、ひとを神経症にすることが可能です。一種の呪いだ。
しかしこれは、学校教育そのままともいえます。
ぼくは小学生のころ、この「全部」に引っかかって、先生にシバき回されました。
たかが勉強をするのに、どうして椅子に縛り付けられるの。
たかが勉強をするのに、どうして怒られるの。
たかが学校なのに、どうしてそんなに大事大事っていうの。
先生もただの人間なのに、どうしていうことを聞かないといけないの。
ま、そりゃ、シバかれるかな。
世界観には大きく分類するとふたつあって、「A. 収斂型世界観」と「B. 拡散型世界観」です。
これは時間の概念にもあらわれてきます。
おおむね、西洋系はAの「収斂型」の傾向が強いみたいです。
この世界には「終末」があり、すべてはそこへ向かって進んでいるという思考です。
死ぬと天国か地獄かの二択になると考えます。
数の数え方も、たとえばみんなで同時になにかを行うときには、「3・2・1…それっ!」というふうに、減算集約していきます。
いっぽう東洋系はBの「拡散型」の傾向が強いようです。
この世界には終末はなく、死さえ通過点と考え、すべてのことは永久無限に「回転する」と考える。
数の数え方は、「いち・にの・さんっ!」と、数を増加させながら足並みを揃えます。
余裕を失うというのはまず第一に、時間とともにすべての事柄が収斂していくという考え方に基づくのだと思います。
第二に、時間を有限であると認識している。
このふたつの考え方を腹の底に叩き込めば、かんたんに余裕を失い、まじめで、神経質になることができます。
はやくしないと、終わってしまうから。
病気には、「輸入病」というのがあります。
本来その国土には存在していなかったけど、海外から病原菌やウィルスが持ち込まれて感染流行してしまうというものです。
ぼくは神経症とかパニック障害とかは、もしかすると「輸入病」なのではないか? と思うことがあります。
もちろん、病原菌やウィルスが持ち込まれたわけじゃないです。
持ち込まれたのは、世界観です。
本来日本はアジアの小国で、仏教や神道、儒教などの世界観で構築されていました。
輪廻を信じ、ほとけさまを信じ、死ねばもれなく善人でも悪人でも、だれでも仏様や神様になると思っていた。
世界観が「拡散型」だったのですね。
時間は無限だった。
しかし西洋との交流が増え、戦争に大敗したことで、西洋型の「収斂型世界観」がいっきに流入してきてしまいました。
そこには、輪廻も存在していませんし、時間も有限です。
この世界観を翻訳した結果、余裕を排除し、切り詰めて、収斂していくことを重要としていきました。
世界観は入ってきたものの、宗教までは浸透しなかったため、中途半端な収斂型世界観が構築されていったのですね。
死の概念が、ふらっふらになった。
天国や地獄があるということも信用できなければ、輪廻も信用ができない。
神様や仏様の存在もよくわからないし、終末という概念もあまり理解できない。
死後の心配よりも現実的な老後の心配、病気の心配、社会的損失への心配のほうが重要になっていきます。
死という、だれにでももれなく訪れるイベント、つまり生きることの「基盤」ともいえるこの概念について、根無し草になってしまいました。
死ねば、そこで完全に終わりなのか、輪廻があって次の生があるのか、天国や地獄があるのか、人によって意見が別れて、個人の中でさえ確定できていません。
ずたずたの、ばらばら。
表面的な「収斂する世界観」だけを受け入れて、その哲学はきちんと受容しなかったのです。
圧倒的な不安が生まれた。
英語では、余裕のことを「マージン」といいます。
つまり、隙間のことですね。なにもない空間。
余裕があることは、マージンが多いということです。
しかしぼくたちは、余裕のことを「パディング」だと考えている節があります。
パディングとは、「詰め物」という意味です。
「休みの日には、旅行などのバカンスを楽しもう!」
休みの日をマージンと捉えるのではなく、「バカンスという詰め物を入れる器」と考えてしまう。
空白の時間、なにもないひとときというのを、失ってしまった。
これこそがつまり「誤った収斂型世界観」の良い例だと思うのです。
時間は有限であるからこそ、マージンという潤滑油を計画的に挿入し、柔軟にしていく必要がある。
それがバカンスだった。
しかし哲学まで輸入しなかったぼくたちは、収斂する時間と世界でぼうっとしていたために、マージンを失って、ぎっちぎちに圧縮されていってしまった。
そんな感じがして、ならないんですよね。
「休み時間」って、なんだよ!
よく考えたら、意味不明な言葉なんですよね。
休むための、時間。
そんなもの、あるもんか。
時間というのは本来ただ流れるものなのであって、いちいち堰き止めて囲わなくても良いものです。
休み時間に、休みなさい。
じゃかましいわ。
だれかが勝手に決めた「ここからここまで」の間に休むとか、刑務所かっつうの。
なんの罰だ。
休むのは、疲れたから、休むのです。
たべるのは、おなかがすくから、食べるのです。
ねむるのは、ねむいから、なにもすることがないから、ねむるのです。
休み時間、食事の時間、寝る時間。
「収斂型」に毒されて、仕事や勉強という「大きな詰め物」に迫害されて、ほんとうはいちばん大事な、休み、食事、睡眠が、申し訳なさそうに隅っこに追いやられてしまったのですね。
そりゃあ、神経やられるわ。
余裕を失うのは、収斂していくから。
日本人はほんらい、みんな拡散型なんだから、そんなに萎縮しなくていいんですよね。
いち、にの、さーん、で、世界はどんどんちらばって、大きくなっていく。
ちゃんとするのは、きちんとしているのは、建前だけでじゅうぶんだ。
そういう「フリ」をしてるだけで、じゅうぶん。
まじめも、神経質も、口先だけがちょうどいい。
誰も見ていなければ、本音は動物みたいに、わがままで、ルーズで、いい加減。
ちゃんとしなさい、とギャンギャンわめくあたまの弱いイヌみたいなのは、口先だけで褒めておいて、こっそり嘲笑しとけばいいんです。
ほんとはみんな、そうしてる。
腹の底から真面目になるから、アタマおかしくなっちゃんだよなあ。
おおざっぱな賢いひとが、神経質なバカを奴隷として利用する。
それがこの世の構造なんだから、なにもわざわざ奴隷になりにいく必要はないね。
なんでもテキトーにやっとけや。