さいきん「強いもの」に近づくようにしよう、とか思ったりしています。
そうするとやっぱり、強いものがよく目に入ってきますね。
繊細なものを探していたら繊細なものが目につく。
意識している情報が入りやすくなるというのは、やっぱり面白いですね。
だから逆に、注意しないといけないんでしょう。
わるいものに意識が集中していると、わるい情報がいっぱい入ってくるのだと思います。
amazonでリステリンの注文をしていたら、目に止まりました。
禅僧の「関大徹」さんという方の本です。
残念ながらKindle版がないので、到着待ちです。
まだ読んでないくせに書くのもどうかと思ったけど、題名だけでなく、目次もまた強烈なんですわ。
・食えなんだら食うな
・病なんて死ねば治る
・無報酬ほど大きな儲けはない
・ためにする禅なんて嘘だ
・ガキは大いに叩いてやれ
・社長は便所掃除をせよ
・自殺するなんて威張るな
・家事嫌いの女など叩き出せ
・若者に未来などあるものか
・犬のように食え
・地震ぐらいで驚くな
・死ねなんだら死ぬな
わっ!
も、強烈ぅ〜。
お坊さんって、今でこそ「やさしくて慈悲深い紳士」っていうイメージがありますけど、昔は全然そうじゃなかったですよね。
お坊さんってメッチャクチャ怖くて、ちょっとでもヘンなこと言ったら怒鳴られてどドかれるぐらいのイメージがありましたけど。
拳骨和尚、なんていうコトバもありますし。
とにかく「厳格」っていうイメージが、とても似合ってたんですよね。
でもたぶん、そんなのではもう食っていけなくなったのか、お坊さん業界(仏教会、でいいのかな)では、もしかしたらイメチェンを図ろうとしているのかもしれませんねえ。
禅の体験でも、そうです。
そもそもの話、禅を「体験してみましょう」的な、そんなふわっとした集まりなんか、もともとはなかったような気がする。
お坊さんに土下座して頼み込んで、なかば出家するぐらいの覚悟で習うものだったような。
で、その体験教室みたいなのに行くと、それはもう、むちゃくちゃ優しいんですよね、みんな。
無理しなくていいですよ、リラックスが大事ですよ、緊張しなくていいですよ。
にこにこ、ゆるゆる、ほんわか。
介護福祉士かな、っていうぐらいお坊さんがやさしい。
これ、やっぱりおかしいんじゃないのかなあ。
じつはそう思ってたんですよね。
そもそも禅が武家によく取り入れられたのは「死の極限」を超越するためだったんですよね。
いつ死ぬかわからない、あした死ぬかわからない、きょう殺されるかわからない、そんな命を張った「戦士」たちのための教えでもあったわけです。
だからそれはもう、徹底的に厳しい。スパルタだ。
こまかいことを、気弱なことをグズグズ言っていたら、悩んでいたら、張り倒される。
それぐらい気合入ってたんですよね。
でもいつしか、仏教は「癒やし」をメインに据えるようになりました。
厳格、強靭、破天荒、豪放、磊落、そんなイメージはなくなって、ふわっとふんわり、柔軟剤で洗って、きれいに畳んでおきましたわよウフフ、みたいになった。
これはあるいみ「堕落」といってもいいんじゃないのかなあ。
ていうか、いまの日本人みんなが、こう思い出してしまったんですよね。
「悩みを抱えているものには、やさしくするべきである」
だれがそんなこと教えたんじゃ。
そんな「べき」を持ってるから、優しくされないといってキレるんとちがうんか。
そもそもみんな、じぶんのことで精一杯なんじゃ。
優しくなんかしてくれるかいや。あまえんなっつうの。
病なんて死ねば治る。
いやもう、強烈ぅ〜。
でもなんだろう、なんかすーっとするんだよなあ。
ぼくは自律神経失調症とかパニック障害とか外出恐怖で悩んでいるけれども、
「死んだら治るやんけ。死なない病気でなにをぐずぐず悩んどるねんな。おまえはアホか。」
と言われたような気がした。
これはウルフルズの「あーだこーだそーだ!」の歌詞「たかが悩みじゃないか」に通じるところがあるような気もしましたね。
もしかしたら、仏教の本質って、ここにあるんじゃないかなと思いました。
どうしてもグズグズ悩んでしまう、気にしてしまう、そんな「通常平面」がある。
その通常平面から、一気に「飛び出して」しまうことなんじゃないかなあ。
「スケールがちがう」
この一言に尽きるような気がする。
こまかいことを神経質にぐずぐず気にしたり、引っかかったり、悩んだりしてしまうのは、神経とか性格とかそんなことじゃなくて、ただたんにスケールが小さいだけだ。
持ち歩いているものさしが、ちっちゃいんだよなあ。
姿勢ガー、呼吸ガー、背骨ガー、ビタミンガー、栄養ガー、神経ガー、冷えガー、血行ガー、血圧ガー。
じゃかましいわ。
「その世界」から脱出しようともしてないから、その狭い世界でいつまでも、キュウキュウ泣いてるのかもしれませんよね。
スケールが小さいから、考え方も硬くなってしまうんでしょね。
わたしは、こうでないといけない、とか。
わたしは、こういうものである、とか。
わたしのしごとは、これである、とか。
一回思い込んだら、それから逃げられなくなってしまう。
真面目とか、やさしいとかじゃなくて、ただ単にスケールが小さいだけかもしれないんだよな。
まあもともと小物のぼくなので、そっち方面には、すぐには行けないです。
でも「近寄っていこう」とは思いますね。
もう、ええねん。
体調がどうの、気分がどうの、そんなことでグズグズいうのは。
あれがこうだから、これがこうなる。
これがこうしたから、あれがこうなった。
もう、ええねん。
そんなのは、飽きたんじゃ。
細かいことを愚図愚図いうとっても、けっきょくなんにも解決せえへんやないか!
いつまでそんな戯れ言に付き合わんといかんのじゃ。しょうもない。
禅にも、つよい禅と、よわい禅がある。
マインドフルネスなんかは、完全に「よわい禅」でしょうね。
目的を持ってしまってるからなあ。
休息したいとか、脳疲労を癒やしたいとか、生産性を上げたいとか、そんな「通常平面」でゴニョゴニョしてる。
もちろんそれが「わるい」ではないですけどね。
強いのと弱いのと、いいのと悪いのとは、軸が違いますもんね。
いっぽう、関師とか鈴木師、南天棒師の禅は「つよい禅」だと思う。
全身此れ肝(きも)。
地震ぐらいで驚くな
いいなあ。
ぼくもそんな男になりたい。マジで。