健康になろうとすると、どうしてかえって、具合が悪くなるのか。
治す努力をすると、どうして治らないのか。
このアマノジャクめ!
と言いたくなるけれども、理由がわかったような気がする。
これは、当然の帰結かもしれないです。
「健康になりたい」「治したい」と思い、願うということ。
これはどういうことかというと「現状に満足していない」ということなのですね。
じぶんの体調について「これは本来的ではない」「異常事態である」と、認識しているわけです。
つまり「現在の自分を否定している」ということです。
体調を良くしようと思うのは、体調が悪いと思っているから。
あたりまえです。
さてぼくは、自律神経の調子がどうもイマイチで、午前中にソワソワしたりイライラしたりすることが多いです。
これは、あきらかにおかしいと思う。
何よりも、ぼくにはこれといったストレスはないのですよ。
少なくとも、怒るようなことはないです。
食生活を改め菜食中心にし、塩分も調整し、規則正しい生活をし、運動だってけっこうやるようになりました。
お酒をやめ、タバコも減らし、間食だってしませんし、ジャンクフードは一切食べません。
寝る前にはヨガと瞑想をし、できるだけリラックスするように心がけています。
そんな生活を、もう5年ぐらい続けています。
それでも、自律神経の調子はいっこうに良くならない。
血圧は高いし、たまにパニックも出る。
そうなのです。
ぼくの生活において、唯一のストレスはこの体調そのものです。
「正しいことを長年しているはずなのに、全然治らない」
自分の体調そのものに、イライラする。
これは、ストレスです。
ぼくのストレスの原因は、自分自身の体調だ。
「体調が良くなれば、イライラやソワソワも治まるのではないか」
そう考えていました。
でこれは、完全なる間違いだったかもしれません。
というのも、ぼくは「体調が悪いからイライラしている」というよりも、「自分の想定通りではない体調にイライラしている」からです。
自分の体調そのものが、ストレスだ……そう考えるから「体調が良くなればストレスはなくなる」という仮説が生まれる。
待て待て。ちょっと待て。
それはすこし、視点が狭すぎるのではないか?
その論法には「自分の認識は絶対である」という傲慢が、こっそり隠れています。
「わたし自身が、じぶんの体調をおかしいと思うのだから、わたしの体調は悪いのだ」という角度に立っている。
ちょっと偏りすぎてやしないか?
ストレスへの対峙方法。
それには「解決」と「受容」の、ふたつの方法があります。
前者は、原因が明確かつ、軽微で容易なストレスに対峙する方法です。
原因を究明し、是正するという方法。最も簡単な方法論といえます。
いっぽう後者は、原因が複雑で解決が非常に難しい、あるいはできない場合に行うことです。
ストレスを近視眼的に解体し分析するのではなく、総体として捉え、肯定し、受け入れてしまう。
そうすることで「ストレスの意味そのものを崩壊させてしまう」という方法論です。
状況から鑑みると、ぼくがとるべき方法は後者だったのかもしれないです。
とくに明確なストレスがあるわけではなく(すくなくともそう見えている)、原因が不明または複雑で、どのような努力も功を奏しない。
そして、ストレスそのものが、自身の体調不良である。
原因が複雑で解決が非常に難しい、あるいはできない場合に行うこと。それは、
受け入れる
ことです。
自分の体調を、受け入れる。
「わたしの自律神経はおかしい! お医者さんも治してくれない! だから自力で勉強して、努力して、頑張るんだ!」
そんなことを、考える。
これはつまり、一言でいえば「戦っている」のですね。
自分自身と、戦闘をしているのです。
交感神経とは、闘う神経です。
いつもいっしょにいる自分自身と闘っていたら、交感神経は興奮しっぱなしになるに、決まっているじゃないですか。
「原因はないのに……」
そんなことない。ある。あった。
灯台下暗し、自分自身と、四六時中戦っていることが、原因なんだ。
自分の体調を、受け入れる。
これはこういうものなんだ。
正しい、正しくない、あるべき、あるべきではないという二元論から、脱却しよう。
これを、漢字一文字でいうと、
恕
ということになるんだと思います。
自分自身への、思いやりと、いつくしみ。
また老子的には、
知足
ということにもなるんだろうと思います。
たしかに、時にのぼせたり、イライラしたりして、不快ではある。
しかしぼくには仕事があり、家族もいて、とくに大きなトラブルがあるわけではない。
だれかを恨んでもいないし、恨まれてもいないし、係争している相手はいない。
明日殺しに来る人がいるわけじゃない。
きょう住む家があり、明日食べる飯があり、着る服もある。
なにより、きょうも、生きている。
じゅうぶんである。
そんなに大きな問題じゃない。
これぐらいのことは、おおきなこころで、受け入れよう。
じぶんじしんを、受け入れよう。
愛とは、欠点も含めて受容することを言います。
我が子に欠点があるからといって愛せないという母親はいません。
完全でなければ、期待通りでなければ受け入れられないということは、愛がない、愛が足りないということです。
じぶんの体調に神経質なのは、じぶんへの愛が足らないのかもしれません。
いいじゃないの。
長年連れ添ってきたこのからだ。
多少わるいところがあっても、ゆるしてあげよう。
ぼくがカラダに悪いことをしても、カラダはぼくを、ゆるしてくれた。
同じように、カラダが調子悪くても、ぼくがゆるしてあげよう。
たとえば 闘病 とか。
戦う 闘う と
さも かっこいいこと かのように
世 では 軽々しく 使う …
たたかう と いうの は。
おろかもの の すること と。
わたし は。
おもって います。
(_ _)
それでも。
ただ。
すべて は
自然。
みずから
もしく は
おのずから。
しかる だけ。
だけれど
ね。˘ ˘*
闘う、戦う、もういい加減、そーゆーのいいわ、とぼくも思います。
戦って、勝たないとそれができないんだったら、そりゃ能無しなんじゃねーの、とも思います。
戦うのには、どうしたって怒りのエネルギーが必要ですし、怒りはカラダにわるいです。
そういえば「恕」と「怒」って、真逆なのに、文字がよく似てますよね。
思いやりを意味する「恕」は、「こころ、そのままに」という意味なんだそうです。
「怒」の「奴」は、奴隷の意味なんだそうです。
闘って、勝ち負けができて、負けたものが、勝者の奴隷になる。
奴隷のこころが、怒りなんだそうです。
奴隷を生み出す戦いは、やっぱりいらないですね。