仏教のイデオロギーをいったん断捨離してみたら、生きていくのがラクになりました。
呼吸がラクになった。
やっぱりぼくは難しいことを考える素質を欠いているのかもしれません。
表面的なところまではなんとなく理解ができても、根っこのところではなにを言うとるのかサッパリわからん。
結局どうしたらいいのか、ちっともわからん。
そこで神道に目を向けてみると、異様なまでのわかりやすさと、また実質的な効力にも気がつきました。
それは「タタリ」という発想です。
はっきり言って非科学的だし、バカみたいではある。
この科学万能の世界においてタタリとか、プププ、あたまおかしーんじゃねーの、病院行けば? てなもんです。
でもね。
ぼくは案外、ここに現代人の忘れ物があるのでは、と思った。
コロナウィルスの蔓延について、この原因はウィルスであるとされています。
そこでいま人々に推薦されている行動は「3密を避ける」です。
密着、密集、密閉を避けよというわけです。
またいっぽうで「集近閉(しゅうきんぺい)」ともいわれる。
集合、近接、閉塞を避けなさいという。
ともに同じことだし、正しいことだと思います。
このたびのコロナ禍は、つまり「疫病」です。
これを古代の人は、タタリであると考えた。
タタリによって、ケガレが生まれたと考えた。
これってじつは、おもいのほか合理的な発想でもあるのですよね。
タタリによってこの世界は「ケガレ」で満ちてしまった。
だからケガレの多い場所には近づかないようにして、自分自身の「ミソギ」も頻繁に行う。
これは「3密」と相通じるところがありますし、手洗いうがいの推進とも合致します。
しかし「ウィルスによって」という観念と決定的に違うところは「ウィルスさえなければ大丈夫」という発想にはならない、ということです。
タタリによるケガレは「予測ができない」という特徴がある。
だから条件付きでダイジョウブという発想はない。
私はダイジョウブだという、個別性も許さない。
天下万民そのケガレに取り憑かれる可能性が平等にある。
免罪符のない、条件のない危険。
これが「タタリ」。
「マスクしときゃあダイジョウブ」みたいな発想を許さないのでありますね。
ある意味高等であるともいえます。
また「タタリ」を解消するために必要なのは「タマシズメ」といわれています。
あらぶるみたまを、しずめたまへ。
決して「戦う」「撲滅する」「駆逐する」「封じ込める」ではないのです。
しずめる。
この発想は、ぐるっと一周まわってとても「まとも」な判断ともいえます。
科学的にもウィルスのようなものは100%完全に消し去ることも、防ぐこともできないのです。
せいぜいできるのは、減らすことぐらい。
ウィルスの数、ウィルスに接する機会、ウィルスを増殖させる機会を、減らしていくしかない。
「駆逐する」という強硬な思想にはとても小気味の良い感触はあるものの、あまり現実的ではない。
結局は「しずめる努力をする」あるいは「しずまるまでおとなしくしておく」ということが、最も現実的な方法論ということになります。ていうか、それしかない。
ワクチンを発明したところで、それは駆逐したのではなく、しずめただけ。
結核菌だっていまも世界じゅうにたくさんいますから、BCGで駆逐できたわけではない。
「タタリ」の原因は、怒りや恨みとされています。
怒りを分解すると、そこには「不安」があります。
恨みを分解すると、そこには「怒り」があり、それを分解すると「不安」があります。
つまり「タタリ」の本質は、不安なのです。
いま、世界で何が起きているか。
むろん、その端緒はコロナウィルスの蔓延だったけど、「人々の不安」こそがいま最大の問題になりつつあります。
むしろ今からは、そのことに対峙していかねばなりません。
「コロナウィルスさえ駆逐できれば完了である」という発想は、だからある意味、間違っている。
人々の不安を解消しなければ、事業は完了しないのであります。
つまりは、「タタリをシズメル」のと、やることは同じだということになる。
この天地の怒りの原因は、なにか。
科学的な思想だけに固執すると、そこまで発想が行かないです。
原因はウィルスなんだもの、ウィルス駆逐すりゃあいいじゃん、それが人類の勝利なんだ、みたいな、ちょっとした病気みないなことを考えてしまう。
「タタリ」という側面から見たばあい、この現象そのものにも原因があると考える。
それはたとえば、むやみな森林伐採だったかもしれない。
生態系の不調和によるものなのかもしれない。
自然破壊が関係しているのかもしれない。
つまりは、「ヤマノカミ」「ウミノカミ」のタタリかもしれない。
もしくはだれかをいたずらに怒らせ、恨ませたことが原因なのかもしれない。
人為的なことが原因だとしたら、それは「ヒトノミタマ」のタタリかもしれない。
人は死ねば、神になる。
生きている間、つらいことはあるものの、それでもつとめて明るくしてにこやかに過ごせたひとは「ウブスナの神」になる。
ウブスナは万物を育成する原理だから、あらゆる生命を生み育てていく。
いっぽう恨みや怒りを抱えたまま生き、そして死んでしまったひとは「タタリ神」になる。
タタリ神はウブスナ神とは逆で、あらゆる生命の誕生と成長を阻害し、破滅を行う原理である。
だれでも死後はブスナになりたいし、全員にそうなってほしい。
そうしないとこの世は狂ういっぽうだからである。
だからこそ、誰に対しても「徹底的にやっつける」ことはしてはならない。
ことの是非はさておき、だれかを追い詰めるということは恨みを生み、タタリ神にしてしまう可能性があるからです。
自分自身も、ひとのことも、だれのことも、悪人でさえ、追い詰めない、やっつけない。
どこかに余裕という逃げ道を用意しておく。
そうするだけで、ひとはタタリ神になることはない。
自然に対しても、同じ。
殺しすぎない、破壊しすぎない。
必ずおおきな余裕をのこして、人類に必要な部分だけを、すこし拝借するという発想。
そうすれば、ヤマノカミもウミノカミも、決してタタルことはない。
……という発想。
もう「追い詰める」「突き詰める」は、オワコンなんだ。
「殲滅する」「駆逐する」「制覇する」も、オワコンだ。
妄想なんだ。
そうすることでタタリともいえる現象が、本当に起こっている。
自然の不調和は、必ずどこかにしわ寄せが来る。
それが、タタリ。
タタリを恐れることは、案外メリットが多い。
むしろ「現実にブレイクダウンした科学的姿勢」とさえいえる。
戦うのでもない、抗うのでもない。
シズメル、あるいは、シズマルのを、気長に待つ。
戦うことも大事だけど、こっちのほうも不可欠な姿勢ですよね。
いまは戦うときなのか、待つ時なのか。
この判断をミスったとき、世界も、個人も、混乱しはじめる。