共存という万能

昨晩寝る前にホケーとしていたところ、突如

「はううっ!」

と思いついた。

 

そうである。

そうなのである。

 

筋トレもヨガもやればいーじゃねーかーー!!!

 

先日も書いたが、最近チマタで蔓延している「ヨガはいいことだらけ」みたいな言説はたぶんウソである。

5年間クソ真面目に続けてきてわかったが、ヨガばーっかりやっていると「ヨガのわるいところ」も全面的に受け取ってしまう。

つまりは副交感神経への極端な偏りによって思考の連合弛緩、被害妄想、不信、疑い、臆病、筋力低下、体温低下、代謝低下、気力減退、自己肯定感減少などの傾向が強化される。

日頃から極度な緊張と興奮によって体調不良を起こしている場合はヨガによってこれが緩和調整されるので、とても良い効果が得られる。

しかしだからといって「ヨガばっかり」をしていると、明らかにバランスを崩していって、また別の不具合が出るようになるのである。

いっぽう筋トレにも特徴がある。

筋トレを長く続けていくと交感神経が強化されて気力充実、体温上昇、菌抵抗力上昇などが起こり、強気になり、活動量が増え、頭の回転が早くなり、自己肯定感が上昇し、基本的欲求が活性化していわゆる「ハツラツとした」人間になっていく。

しかしこれもやりすぎると攻撃的、勝敗依存、主観強化、排他傾向、多動、短絡的、自尊心とエゴの強化、頑固、強硬などの特性が高くなってしまう。

だから「どっちがいい」とかいうようなそんな話ではなくて、ある人にはヨガが良く、ある人には筋トレが良いということであって、また同じ人でも時期や体調、そのワークの継続日数によっても必要性が変わってくるということである。

ジョギングや各種スポーツ、瞑想などについてもすべて同様である。

 

いったいなにを、「こだわって」いたのだろう。

思うに、三つ子の魂百までともいうし、もしかすると幼少期に受けた創価学会の思考傾向にまだ影響されていたのかもしれない。

今はもうまったく何も関係していないが、ぼくが幼少の頃は母親が創価学会の信者で、物心つくまえから教義を教え込まれていた。

創価学会の教義はひじょうに一神教的で独善的で排他的で原理的である。

日蓮の教え、法華経の教え「だけ」が正しく、その他の教えはすべて虚偽だというのである。

そのような方向性の思考を幼少期に強要されていたがために、その他の別件事象についても同じように「唯一性」「優劣」「勝敗」を想定するようになったのかもしれない。

ヨガと筋トレ、どっちが正しいかというような、そのような奇妙な妄想をしてしまいがちになってしまった。

つまり考え方が固く、また幼稚なのだろうと思う。

あらゆる事象、それは宗教や哲学であっても原則的本質的に善悪や勝敗などはなく、それぞれに「特質」があるだけである。

その特質がその人のニーズに合致するかどうかによって意味が変わるわけで、人の特性や条件を超越した絶対唯一無二の価値や意義があるわけではない。

あたまではわかっているが、心の深いところでつい、幼児性が出てしまうのかもしれない。

 

さておき、やっぱり「共存」だなあと思うのである。

ヨガを志したのだから、死ぬまでヨガを貫くのであるみたいな、そんな排他的なことはしないほうが良いのだろうと思う。

筋トレを志したのだから、頑として継続するのである、みたいな頑固なことは考えなくて良いのだと思う。

座禅を始めたのだから、不退転の覚悟で釈尊の金剛座を守り抜くのであるとか、そんなコワイこと考えなくても良いのだと思う。

筋トレとヨガ、座禅もぜんぶ「共存」すれば良い。

必要なときに、必要なことをすれば良い。

箸が必要なのに、金槌でメシを食わんでも良い。

靴が必要なのに、パンティーを足に履かんでも良いではないか。

 

なんかこうー、どうにも気力がナー。めんどくせーなー。コワイなー。不安ダナー。

みたいなときには、筋トレしたり、走ったり。

緊張しまくって、すげえ考え事してストレスでパンパンのときは、ヨガをしたり、座禅をしたり。

べつにそれで、いいじゃあねえか。

考えてみれば、ぼくは筋トレとヨガは「がっつりやってました」と言ってよい経歴ではる。

また座禅もいちおう、独学ではあるが200日連続でやったりしたので、「やったことはある」と言っても良い経歴である。

そういったモロモロについて、まあまあ真面目にしっかりやってきたのだから、

「いまのじぶんに必要な部分」

を取り出して、柔軟に使えばいいではないかー!

ていうか、それをせんかったら、なんのためにいっしょうけんめいやってきたんじゃー!

ワーレーー!!

 

いろんなことの、その「いいところ」もしくは「いま必要なところ」をうまいこと組み合わせたら、最強なんだよなあ。

単体ではまったく不完全でも、弱点をべつのことの長所で補うことができれば完全に近づく。

この世には「万能」などないが、もしかすると「共存」ということが、この世での「万能」ということなのかもしれないなあ。

どうにもぼくには、ある単一のメソッドに対して完全性や万能性を求める傾向がある。

あぶね。

こういう考え方は、じぶん自身や、ほかの人間に対しても及んでしまうかもしれないから。

人は共存し助け合い、弱点を相互補完しあうことがなければ、結局はなあんにもできんものなあ。

「完全になろう」「一人で完結しよう」と思い始めたときに、ひとは発狂しはじめる。

ていうか、そんなことを考えるやつぁ、もうすでにキチガイなんだな。

 

わしゃあ、キチガイになるために生まれてきたんと違う。

非力でもアホでもだれかと「組んで」、なにかをするために生まれてきたんである。

わしゃあ、ヨガするために生まれてきたんでも、筋トレするために生まれてきたんでもない。

だれがなんといおうと、しあわせになるためにうまれてきたんである。

ほんとマジで、しょうもないこだわりは捨てよう。

アホな考え方もすてよう。

「一番いい方法」「最強の方法」とか、じゃかあっしゃあ!

ワーレーー!!

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