人間最大の罪は不機嫌である。
ゲーテが言ったそうなんだけど、そうだよなあ。
ほんとそう思う。
人間に限らず、イヌでもそうですからね。
なんかニコニコしていて、尻尾ふって、オハヨー、コンチワーッスって寄ってくる上機嫌なイヌは人のことも幸せにしてくれます。
でもなんかイライラしていて、がるるる、こっちくんな、噛むぞワレ、ちゃあっそう、みたいなイヌは、まあ犬好きのひとはそれでもカワイイと思うかもしれないけど、でもやっぱり、ひとをあんまり幸せにしてくれません。
しかし難しいところで、
「そうだな。不機嫌って罪だよな。ぼくも上機嫌でいるように頑張ろう」
とか考えたら、それ不幸ですよね。
イヤなことがあるのに、イヤな顔せずに、むりやりニコニコ顔をつくって、むりやりヘラヘラして、「うん、いいねいいね」なんて無理してやんの。
そーゆーことを続けていくと、どっかで「パーンッ!」って出る。なにかが。
解決されなかった不機嫌が熟成されて、あぶねえ「怒り」に変化して、人や自分に攻撃を仕掛けるようになる。
だからぼくは、あの「ありがとうといいましょう」とか「よい言葉には波動がある」とかいうのが嫌いなのです。
気持ち悪いんだよなあ。
キモーチャーリーの。
だってそれは、本音を隠してイデオロギーでココロをメッキしようとしているから。
かんたんにいえば、ただのうそつきじゃねえか。
そういうひとのメールって、速攻で削除したくなります。
文末に、なんの脈絡もなく「感謝!」とか書いてやんの。
ああ、こういうひとは、なんでもこういうふうに、本質なんか考えずに「その場しのぎ」をするひとなんだろうなあ、って思ってしまう。
ウソついたらいかん。
ひとにも、じぶんにも。
ていうか、じぶんにウソつくから、不機嫌になってるんだろ!
不機嫌なのは悪いことだから上機嫌でいましょう、っていうのは、あたまおかしいですよね。
そうじゃなくて、
・じぶんは今、不機嫌なのかどうかをただしく検知する
・なぜ不機嫌になったのか、原因を探る
っていうことが大事なんだと思います。
それをせずにただ頭から「上機嫌の毛皮」をかぶったりしたら、ムレちゃうよね。
水虫になるよね。こころが。
ぼくはずっと自律神経の調子がイマイチなんですけど、最近気がついたのは、
「なんだ、おれ結局不機嫌だっただけじゃねえか」
っていうことです。
不定愁訴といっていろいろグズグス言っておるけれども、それはようするに、文句いって愚痴をたれているのです。おれが。
おれの身体が、じゃなくて、おれが、そうなのです。
なぜか。
「ぜんぶお酒でごまかしてきたから」
かもしれないな、って思う。
お酒ってあれ、まさしく「上機嫌の毛皮」なんですよね。
だってなんにも解決してないんだもん。
なんにも解決してないくせに、上機嫌になりたいもんだからお酒を飲むの。
飲んでる間だけ、妄想の世界で遊べる。
「ターイムっ!!!」って、悩むことを中止できるんですよね。
でもシラフになったらまた戻る。現実に。
楽しかったぶん、現実のツラさが身にしみる。
何よりも問題なのは、「結局なんにも解決していない」っていうことです。
ごまかしただけなの。
酒なんか飲んでるヒマがあるのなら、不機嫌の原因の1/10でもいいから解決したほうがいいんですよね。
特にイヤなことなんかなくて、ただみんなで楽しみたいから飲む酒なら、いっこうに問題はないです。
めでたい酒は、ひとを壮健にする。
でも「イヤなことがあるから」という理由で飲む酒は、人を滅ぼす天下の猛毒であります。
ストレスがあるひとほど、飲んだらイカン。
下戸のひとはみんなお酒なんかに逃げず、堂々とストレスと戦っておるのでございます。
飲める肝臓を頼りにして、それでじぶんだけ逃げるなんてズルイよ。
「大人にはツラいことがあるんだ」
うそつけ。
つらいのは、大人だけじゃねえ。
「つらい」っていう100%主観の世界を、かってに「大人たち」っていう客観世界に敷衍すんな。
この、ちんかす野郎が。
ま、そのちんかす野郎は、まさにぼくなのですけれどもね。
よく飲んだなあ。
シラフのほうが、ちゃんと考えられるからいいですね。
お酒をやめてからよーっくわかりました。
お酒を飲んでしまうと主観だけで考えるようになるから、すごく本質的なところを見落としてしまうんですよねえ。
結局、不機嫌なのは「いやなことばっかりしている」から、そうなるんですよね。
それは社会的な拘束すなわち、自分じゃないだれかとか、社会構造とかが問題のように思いがちだけど、じつはほとんどの場合自分が原因だったりする。
いましなくていいことを、いまいっしょうけんめいしようとしていたり。
いま考えなくていいことを、いまいっしょうけんめい考えていたり。
先のことばっかり考えていたり、昔のことばっかり考えていたり、疑ったり、怖がってばかりいたり。
神経質とか心配性とかいう、ほんとうは存在しない「性格」の問題に責任転嫁したり。
そしてその性格を変えられないといって、嘆いたり。
「ない」ものが「変わる」わけがねえっつうの。
ないものを変えようとすっから、変わらねえ、変えにくいって思っちゃうんですよね。
性格が問題なんじゃなくて、「反応のクセ」が問題なのに。
変えなければいけないのは性格なんかじゃなくて、反応のクセなんでしょうね。
いまそこにあるのは、性格じゃなくて、反応だ。
イヤなことをがんばって乗り越えることばかりしていると、こころが「修羅」になっていくんですよね。
戦う、ということがもっとも重要だと勘違いしてしまう。
戦う、という概念に征服されてしまうと、「強い」「弱い」という概念がうまれる。
そこで、つらいこと、いやなことを突破できないじぶんを「弱い」と思うようになる。
うそつけ。
戦うから、勝ち負けができるんですよね。
だったら、戦わなければいいじゃん。
っていう、すげー単純なことを思いつかないのが、これがまさに「クセ」なんでしょうね。
戦いグセがついてる。
しあわせになるために、戦わなくてはならないとだれが教えたんだろう。
食えなんだら食うな。
禅では、そういうふうに教えるんだそうです。
食えないなら食えるようにがんばれ、戦えというのが、一般的です。
でも禅では、そうは言わない。
食えないのなら、食わなければいいじゃない?
んな無茶な、と思った。
でもよく考えると、これは「いちばん正しい」といえます。
ほとんどの場合、「食えない」というよりも「食えなくなる可能性がある」ということが先に問題になります。
そこで、ではどうすれば、食えるようになるのか、を考える。
そこで、いろいろな要件を箇条書きにして、ひとつひとつ遂行していこうとします。
しかし、ここで起こる問題がいくつかある。
・その要件を自分が原因で遂行できない場合がある
・その要件を他者が原因で遂行できない場合がある
・未来のことは完全に予見できない
とにかくいろんな理由でうまいこといかない場合がある。
ソリューションや解決方法というのは、100%達成保証というのはない。
だから結局どうなるかというと、最終的には
・いまできることを、するしかない
ということに落ち着く。
いくら頑張ったって神様じゃああるまいし、先のことはわからない。
だから結局は今できることを粛々とやるしかない。
となると、
「じゃあその心配は、いったいなんだったんだ」
ということになる。
心配しようがするまいが、やることは同じだったりすることがほんとうにとても多い。
冷静にしっかり考えるほど、そのほうが多いことに気づく。
妄想的にフワフワしながら考えるから「もしかしたら画期的なソリューションがあるのではないか」などと思いがちになる。
待て待て、待てコラ、その「画期的なソリューション」というものこそが、じつは分解してみると「できることを粛々とやってきた積み重ね」であることがほとんどなのでありました。
だから、一発なんか画期的などんでん返し的ソリューションあるんじゃね、って考えることは、じつは解決方法を模索しているのではなく、宝探しをしているだけである。
見つかるわけないだろ。見つからないから、お宝なのに。
よって最終的には
「食えなんだら食うな」
って、なってしまうんだよなあ。
これはべつに困難から逃げまくれとか、ぜんぶ諦めてしまえとかいうことだけではなくて「困難を乗り越えるためにはすげー冷静な判断が必要である」「じぶんにできることをしっかり見て、それをしっかりややってけ」ということを言ってるんだと思います。
冷静に判断したら、ほんとうにどうしようもないことは、もうどうしようもないですからね。
ほんとうにどうしようもないことで悩んだってしかたがないし、悩んでどうにかなるんならそもそも悩む必要ねえだろ、アホかおまえは、とお釈迦さんもいってます。
不機嫌なのって、結局「妄想に支配されている」っていうことは、わりと根本にあるのかもしれませんね。
まだ来ていない最悪の結末を夢想して、それで怖がったり、不安になったりする。
恐怖と不安は「怒り」のハイオクガソリンである。
恐怖も不安もなければひとは絶対に怒ることはない。
不機嫌を分解したら、それは結局「怒り」である。
なのに「怒るな!」とか「不機嫌になるな!」とか、無茶いうんだよなあ。
そのためには不安や恐怖を取り除かないといけないのに。
そしてその不安や恐怖は結局自分自身が生み出していたりして。
ほんと、人間て、なにやっとんじゃ!
あたま良さそうな顔して、そのじつは案外抜けてて、アホである。
もしかしたら、カワイイんじゃないのかな、これって。
と思うと、すこし、不機嫌もマシになりますね。
おれ、カワイイんだ。ウフ。