「参考」っていう罠

このブログは、パニック障害とか自律神経失調症とかを治す努力をしているぼくが、同じような悩みを持っている人に少しでも参考になればいいな、っていうのではじめました。

とちゅう記事が大幅にぶっとんだこともありましたけど、もう7年ぐらい書いてるんじゃないかな。

まさかこんなに続くとは思ってませんでしたが。

 

さてぼくは、さいきんこういったブログじたいがもう不要なんじゃないかな、と思い始めています。

じぶんにとっても、読む人にとっても。

というのも、こういった病気ってけっきょく「なにもしない」っていうことが、いちばんの薬だということに気が付き始めたからです。

こういうところで正しいのか正しくないのか判然としない、あるいは正しいと感じているのは自分だけの情報を撒き散らしていても、あんまり役にたってないよな、っていう。

むしろ邪魔してんじゃないの、っていう。

いや、べつに無常観を持ち出したとか、じぶんの意見に自信喪失しちゃったとかではないんです。

むしろ、逆かもしれないです。

 

参考、という、コトバの欺瞞があるのです。

パニック障害などを患っていると、とても不安です。

そもそもが不安障害の一種なんだから、不安が強いのはしょうがありませんけど。

不安だから、色んな情報を集めようとしてしまうんですね。

もちろん、得た情報を鵜呑みにするわけではないんです。

自分なりに、吟味して、正しい・正しくない、あるいは自分に合う・合わないをできるだけ考えているつもりです。

だからネットなどでいろんな情報を探し回るのは「参考にしている」と思っているわけです。

 

参考、ってなに?

ふと、思ったんですよね。

ぼくたちはこのことばをよく使うけど、参考って、なんなんだろう。

辞書的には、以下のような意味になります。

何かをしようとするときに、他人の意見や他の事例・資料などを引き合わせてみて、自分の考えを決める手がかりにすること。

なるほど。

これは、適切かもしれないですね。

 

と、いうことはですね。

参考にするということは、「なにかをしようとしている」ということに、ほかならないわけです。

そう、もちろん、「治す」ということを「しよう」としている。

その参考情報を、たくさんコレクションしているわけですね。

 

しかしパニック障害や不安障害というのは、「何かをせずにはいられない病気」ともいえます。

強い不安や恐怖を感じることは、症状の「おもての顔」にすぎません。

その裏では「なにかを、しなければならない」という、強い焦燥感が充満しているのです。

だから不安や恐怖だけが問題なのではなく、それを引き起こすこころの「状態」にも、おおきな原因があると考えて良いと思います。

つまりこの病気は「する病」かもしれないのです。

なにもしない、ということが、どうしたってできない。

待つ、ということもできない。

寝かせておく、放置する、もできない。

のんびりする、もできない。

 

もしかすると根本的に必要なのは「なにもしない」ということを「する」ことなのかもしれないな、と思うのです。

じっさい、できるだけなにもしないで、ぼうっとすることを長期間していると、症状はマシになることも多いのです。

あるいは、なにかについて強く集中していても症状はマシになります。

あるひとつのことにつよく集中しているあいだは、その対象以外については「なにもしていない」のと、ほぼ同義です。

「なにもしない」ときのほうが、総体的にはよい状態が継続しやすいのです。

 

ぎゃくに、あれをしよう、これをしなければ、はやくしないと、わすれないように、そんなふうに落ち着きを失い、あれやこれやと「治す方法」を試していると、症状は悪化することのほうが多いです。

何かをためして、なんだか良くなった気がするときも、たしかにあります。

でもそれは多分に神経が興奮状態にあるだけだったりします。

期待や希望という実態のないものに裏打ちされた喜びによって、はしゃいでいるだけ。

だから早々に効果は消えて「やっぱり、これも効かなかった」ということになっていくことも多いです。

 

こうなってくると「参考に」という衝動そのものが、たいへん邪魔なものに見える。

ほんとうは、参考にしているんじゃないんです。

何かをしていないと不安だから、することを探しまわっているだけなのです。

治したいというよりは、期待したい。

なにかをすることによって、不安をごまかしたいだけなのです。

 

いえ、それがわるいことだ、というのではありません。

しかしそのような行動もたいがいにしておかないと、不安はかえって強くなっていくのですよね。

さまざな情報を探し、羅列し、整理し、試していく。

その行動の動力源は「希望」だけです。

だからその希望が満たされないと、ぎゃくに不満がつのり、ストレスが増えていってしまう。

堂々巡りなのです。

 

神経が異常興奮しているということは、こころも異常興奮しているのだと思うのです。

もっといえば、「思考が異常興奮している」。

いわば池の中に落ちたコインを探そうとして、バチャバチャと水をかき回しているようなものです。

そんなことをしたらドロが撹拌されて水が濁って、ぎゃくにコインは見つかりません。

落ちたコインを拾い上げたければ、そっとして水が「落ち着く」のを待つのが最善です。

だから神経をなだめるためには、結局は「なにもしない」ということが、いちばんの正攻法であるかもしれないのです。

なのにぼくは、あばれる。

あばれて、あばれて、ドロで真っ黒になってしまった水の中で、見つからない見つからないと騒ぐ。

 

「参考にする」に、ダマされていたのだと思ったんです。

参考にすれば、あたらしいなにかが生まれたり、あたらしい何かが見つかると勘違いしていた。

ほんとうはその「参考」こそが、ドロそのものだったのです。

なにもしないで落ち着かせて、透明にしないと見つからないのに、ひっきりなしに、たくさんのドロを「こころという池」に投げ込んでいた。

 

だから、いらないんじゃないかな、と思ったのです。

「参考」なんて。

よけいな情報を仕入れるたびに、こころは濁っていくんです。

濁ったこころでは、けっきょくなんにも、見つけられないです。

そのままにして、落ち着いて、透明になれば、バカでもはっきり見えることなのに、よけいな「参考」をばんばん投げ込んだせいで、なんにも見えなくなってしまう。

 

なにもしない、なにも探さない、なにも読まない、なにも聞かない、なにも入れない。

池の水が澄んでいくまで、ただ、待つ。ながめる。そっとしおておく。

そしたら案外、目と鼻の先の、ものすごくわかりやすところに、ポロっと「それ」は落ちているかもしれませんものね。

暴れまわってくらやみにして、くらやみのなかで暴れまわり、たまたま手にぶちあたる確率に賭けるよりも「くっきり見えているものを拾いに行く」ほうが、ぜったいに早い。

 

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