弛緩教:ゆるみすぎ問題

ぼくはもう金輪際、健康に関して本やネットで調べたり学んだりすることはやめる。

とくにネットの情報は、百害あって一利なしと断言する。

ネット情報の90%は、「弛緩教」という邪教に汚染されているのである。

ほんとにもうウソばっかりコキャーがって、いいかげんにシャーッシェーと激怒したいところではあるが、べつに怒ることでもない。

読まなければ良いのである。

 

ネットや本は「営利目的である」ということを絶対に忘れてはならない。

そして、売るということは「ひとの欲望に応える」ということが基本原理であることも忘れてはならない。

ここでポイントなのが「必要」と「欲望」を混同してはいけないこということである。

「売る側」はこれをわざと不明確にし、欲望を「必要」と認知させて販売を試みるのである。

これは何も最近に始まったことではなく悠久の昔から同じであるが、とくにネットや出版物などは近年とくにこの傾向が強くなっている。

むろん、ほんとうの善意で「必要に応じた情報開示」を行っている人や団体がいないわけではない。

しかしそのような善意は「プロモーション」という巨額投資の前には、もはや砂粒のように小さくなってしまう。

SEO対策を施した商売サイトにあふれたネット上においては、「必要に応じた情報」は検索結果の最後の方ならまだしも、もはや検索結果にさえ上がってこないのであった。

これはすなわち、「必要に応じた情報はもはや存在していない」ということと同義である。

 

ぼくはパニック障害を患って以来、ネットや本でさまざまな情報を集め検証してきた。

そして集まった情報の共通項を発見して、愕然としたのである。

ほぼすべての情報が「ゆるめる」ということを本義としているのであった。

その逆のことを要求する情報は、もはや皆無である。

ゆるめろ、脱力せよ、楽をせよとは要求はするが、緊張せよ、力を込めよ、無理をせよとは一切言わなくなってしまったのである。

 

「ゆるめることが正しく、緊張することが悪い」

そんなわけは、ないのである。

緊張と弛緩は表裏一体、どちらにも偏ってはならない。

しかるに最近の健康情報はすべからく「弛緩推奨」一辺倒である。

それらの情報には、もっともらしいことが書かれている。

「現代は緊張の時代である。したがって、その逆の弛緩を目指すべきである」

ここで十分に注意しなければならない。

「現代は緊張の時代である」と勝手に断言しているが、この仮説の真偽については一切議論されていないことに留意すべきである。

もし、この大前提が間違っていたら、どうなるか。

現代の多くの疾病の原因が緊張ではなく、むしろ「弛緩」によって起こっていたとしたら、どうなるのか。

非常に重要なポイントであるにも関わらず、一切の根拠や検証を示すことなく、一方的に「現代は緊張の時代である」と勝手に決めつけているのである。

 

どうしてこうなるかは、当然の帰結だったのである。

人間という生き物は、「ゆるみたい」のである。

弛緩し、脱力し、ゆったりしたい。

これは「必要」なのではない。ただの「欲望」である。

緊張や無理を要求されるより、弛緩や脱力を要求されたほうが、こころが動く。

販売者は、意識的無意識的にせよ、ここを利用しているのである。

弛緩、ゆったり、脱力ということは、「欲望に依拠した経済」においては販売上の重大キーワードとなった。

その逆のことをいうと、もう「売れない」のである。

 

確かに、緊張しっぱなしはよくない。そのことで起こる不具合は数しれない。

だから弛緩することじたいが悪いということではない。

重要なのは、緊張した状態から弛緩した状態に変化すると人間は快楽をおぼえるという点である。

この快楽は、欲望を生む。

ひとたび「弛緩の心地よさ」を覚えてしまうと、人間というのはおぞましいことで、「もっとこの種の快楽が欲しい」とエスカレートしていくのである。

ひとたび弛緩の方向へ向かってしまうと、その逆の緊張の方向へ向かうことを感情的にも、論理的にも拒否するようになっていく。

いわば「弛緩中毒」である。

この状態になると、「ゆるみすぎた」ことによる多くの問題が噴出しはじめる。

 

ある種のウツやパニック障害、自律神失調症は、この「ゆるみすぎ」から起こっている場合もある。

ここで難しいのが、本人は「わたしは緊張している」と強く自覚しているところにある。

緊張を感じているのに、弛緩しすぎであるというのが、どうにも腑に落ちないし、理解できない。

ウソだと思う。

これはべつに難しいことではなく、ただの「認知のトリック」である。

緊張や弛緩のレベルは「相対」によって決定される。

客観的で絶対的な指標によってではなく、あくまで内的で相対的な比較によって認知しているのである。

つまり弛緩しすぎた状態になると、その弛緩した状態を基準点として現状を比較し認知するから、ちょっとした緊張でも「とても緊張している」と感じてしまう。

弛緩しすぎると「緊張していると感じる」状態が、かえって増えてしまうのである。

「緊張している」のではなく「緊張していると感じている」のである。

この「主観」に征服されてしまうと、もはやこの牢獄から脱出ができなくなる。

もはや極限まで弛緩しているのに、さらにゆるめよう、弛緩しようとして、むしろ悪化の一途をたどることになるのである。

 

「弛緩は悪である」

ぐらいに思っておくことも、必要なのかもしれない。

現代の「弛緩教」のドグマ下においては、それぐらいに思っておいてはじめてバランスが取れるのかもしれない。

「弛緩教」に染まってしまうと、努力することや、がんばること、活力にあふれた生活を送ることをまるで悪いことのように感じるようになる。

すこし無理をしただけでも、死んでしまうような錯覚を覚えることさえある。

神経や肉体が弛緩して副交感神経側に傾きすぎると、気弱で繊細で神経過敏になっていくのである。

筋力が低下し、体温が低下し、気血の循環が弱くなり、気血が停滞しがちになり、菌抵抗力が低下し、ヒスタミンの分泌量が増えてアレルギー体質が強化され、ホルモンバランスが崩れていく。

精神的には臆病で、繊細で、ちょっとした刺激に過敏で、理屈っぽく、ひがみっぽく、落ち込みやすく、内向的で、被害妄想的になっていく。

「活力」というものからどんどん遠ざかっていき、生きながらに死に体のような状態へ向かうようになる。

 

このことについて、実験をしてみた。

ある日「弛緩問題」に気がつき、ヨガや気功のような「ゆるませ系」ではなく、強めの筋トレなどの「引き締め系」を続けていくとおどろくほどに体調が改善し、精神的にも前向きで強気になっていった。

しかし、このことはもしかすると気候によるものである可能性もあった。

すなわち秋になって涼しくなり、快適になったために変化が起きたことも考えられるのである。

そこで筋トレを中止し、そのかわりにヨガなどの「ゆるませ系」をメインにしていった。

2週間後、その結果は明らかであった。

ぼくの自律神経はまた悪化し、息苦しさ、アレルギー、イライラ、不安などが噴出するようになった。

もはや議論の余地はない。

ぼくの根本的な問題は「ゆるみすぎ問題」であった。

 

ぼくには一定の緊張感が必要だったのである。

イヤだ、つらい、コワイ、めんどうくさい。

そういったものと「戦う」ことによってこそ、ぼくの命は光るのであった。

それを避け安楽の道ばかりを歩んでいると、ぼくはまさに「死に体」となってしまう。

人間には、すぐに緊張し引き締まっていくタイプの「岩石型」と、油断するとすぐにダラーっとなってしまう「くらげ型」がある。

おそらくぼくの基本的 な体質は「副交感神経型」つまり、ゆるみすぎる「くらげ型」だったのだろうと思う。

もともと体が柔軟で呼吸も鼓動も動作も遅く、激昂することが少ないタイプである。

そういった強めのくらげ系の特徴があるのに、そこに加えてさらに「弛緩」を追加すると、もはや正体を失ってしまうようであった。

 

つまり、だから、「本やネットなど不要」なのであった。

外から与えられた情報を利用するまえに、まずはおのれ自身の状態を客観的に分析できなくてはならない。

それができないのなら、学習はしてはならないのである。

十中八九、悪化する方向へ向かう。

必要なのは、知識やノウハウではない。

「客観性」であった。

じぶんのことを、まるで他人のように、俯瞰して眺めることができる能力。

脳の「海馬」を鍛えねばならない。

そのために良いとされているのが、座禅である。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。