ぼくは野球にまったく関心がなく、関心がないからこそよけいにかもしれませんが、先日亡くなった野村監督の話を聞いてかなり驚きました。
野村監督はあまり強くなかった球団を優勝にまで導いた名監督だったそうで、その手法のひとつに「ID野球」というのがあるんだそうです。
監督がチームを作り上げていく場合や選手がプレイする場合に、経験や勘に頼ることなく、データを駆使して科学的に進めていくという手段である。
ん。
え?
いや、なにを言うとるねん。
そんなもん、当たり前やないの?
つまり「ID野球」が登場するまでの野球は各選手や監督の「経験や勘」でやるというのがメジャーであった、ということなのでしょうね。
現在では当然と思われていることでも、昔は当然ではなかった。
そういえば柔道でも昔はヒザに絶望的に悪い「ウサギ跳び」をやっていたりしました。
股割りと称し床に開脚した状態で100kg以上もある先輩が背中に飛び乗って強引に股を180度開かせるということもやっていました。
練習中には絶対に水は飲んではならず、それで倒れたら「根性なし」と罵られていました。
最近ハマっている登山も考え方がかなり合理的になってきていて、とにかく突き進めというようなことは一切言いませんし、計画性や冷静さということをとても重視するようになっています。
トレーニングも気合気合根性根性言うのではなく、栄養学や生理学に基づいて合理的な強化法を行うのが当然になってきています。
スポーツの世界に限らず、そんなことは多いなあと思ったのです。
商売についても「信用」や「まごころ」などといった寝言を言う会社は減ってきましたし、根性や執念、理想や未来などといった狂気じみた概念だけでなくマーケティングや調査、戦略、生産性、モチベーション、ミッション、理念ということもきちんと考えるようになってきました。
その昔はヤンキーという種族がいてあっちこっちで暴力沙汰を起こしていましたが、最近はほとんど見かけなくなりました。
進化している。
坐禅や掃除を毎日するようになってもうすぐ160日ですが、じつはこの習慣を行うようになる前まで、ぼくはけっこう「逆行型」だったかもしれません。
現在は進化しすぎていているとか、昔のほうが正しいことが多かったのではないかとか、そんな妄想に取り憑かれていました。
かつて通っていたヨガ教室にも電磁波などを恐れて最新機器を使うのはよくないと考えている人や、江戸時代などの昔の生活のほうが自然と合致していて良いのだという思想を持っていたりする人がけっこう多かったです。
しかしぼくは坐禅や掃除を通じてこころの炎症がマシになってきたとき、気がついてしまったのです。
そのような「過去は正しく現在は誤っている」というような考えは、本人はそれが真理だと思いこんでいるけれどもじつは自分自身の感情に完全に支配されてしまっている。
社会に対する拒否感が現在の社会の否定という形をとっているだけなのでした。
「現在のテクノロジーが正しいとは限らない」というのは、もちろんそのとおりです。
長所と短所は必ず共存するものなので、現在のテクノロジーが諸刃の剣であることはいちいち言う必要がないほど、あたりまえのこと。
それなのに、現在の「わるい点」だけを注視してそれを理由に拒否を示すというのは、かなり偏った思考といわざるをえません。
だから理論正しく客観的姿勢で考えているようでも、それはただの「きらい」っていう感情論。
自分自身の感情に自分自身が征服されているだけなのでした。
この世界は成長進化発展するものである。
ニュートラルな立ち位置から見れば、この世界はどんな抗力もブレーキも一切効かない、強大なパワーで成長進化発展してる。
止まらないし、逆行もしない。
ていうか、できない。選択の余地などない。
だから「自然」ということを目指すのであれば、自分自身もとどまることなく成長進化発展し続ける必要がある。
しかるに自然志向というのは得てして「時代と逆行する」という方法論をとりがちです。
また「不動」というのもそういうことになります。
つねに進化発展成長し続ける世界においては世界と同じ速度で成長進化発展することが「不動」となる。
停止したり逆行したりすることは、相対的に過剰な変化といえます。
変化を拒否するほどに、むしろ激しい変化をしていることになる。
川の流れに棹をさすようなものなのですね。
「この世にも間違ったことがある」というのは当然なのですよね。あたりまえ。
だからそれを理由に世界の進化成長発展という基本原理を否定するのはおかしい。
どうしてこんな当然のことに気が付かなかったのだろうか。
この世は絶対的に停止不能な「進化成長発展」という基本原理で動いている。
それを否定し逆らうことは、無理とか無茶をかるく飛び越えて、不毛である。
ぼくもこの世界とおなじ速さで、おなじように進化していこうと思います。
そのためには、どうすればいいか。
たぶん「とくに、なにもしない」ということなんだと思うんですよね。
停止不能な絶対原理の中にいるということは、なにもしなくてもそうなっていく。
だからもし、あえてすることがあるとするならば、
「さからわない」
ということなのかもしれませんね。
さからうな。
おなじように、おなじ方向へ、おなじ呼吸で、ちからをぬいて、いっしょに動こう。