「思い込むちから」をバカにするな。

ずっと胸の調子がわるいのは、エアコンのカビのせいじゃないか。

最近息苦しさがとれてきたかわりに、微熱が出たり、ものすごくダルくなったのは、エアコン掃除で出たカビの影響じゃないか。

そして、カビがなくなったので、からだが「今こそ全部治そう!」と思って、熱とか咳が出ているんじゃないだろうか。

 

……などと、最近思っていました。

 

ほんとにずっと、息ぐるしさが続いていたんですよね。夏ぐらいから。

だから夏型過敏性肺炎じゃないか、と思ったんです。

エアコンがものすごく臭い時期がありましたから。

部屋の掃除をするときゅうに胸が楽になったりするものだから、なおさらです。

業者さんに頼んでエアコン清掃をしてもらったら、あの息苦しいのがずいぶんとれました。

そのかわり完全に風邪のような症状が出てきて、微熱程度ではありますが、ずっと熱が出ています。

エアコン清掃のときには多少カビの胞子が飛散ることがあるので、その影響かなあと思ったりしました。

あるいは、各所の掃除が終わって一段落したので、からだのほうが「よっしゃ! 今から本腰を入れて治そう」ということなのかな、とも思いました。

このことは、ブログにも書いてきました。

 

この上記の一連のながれを見ていて、ぼくは、ハタと気がついてしまったのです。

「……と思った」

「……と考えた」

「……なのではないか」

 

待て、ぼくが思っているとおりに、からだが反応しているぞ。

 

つまりですね。

あまりそうは思いたくないところもあるのですけど、やっぱりそうなんじゃないか。

ぼくは36歳のときにパニック障害を発症して、それから10年以上、自律神経の具合がわるいと言っていて、不定愁訴で悩んでいます。

病院にいっても、とくにこれがわるい、というところがありません。

またこの自律神経系の不調を除けば、それ以外のことでとくに悩んでいることは、ないのです。

なんか、おかしい。

なんか、おかしい。

 

なんか、おかしいぞ。

 

 

 

思い込みなんじゃないか

 

 

 

忽然と、天井から雷のように落ちてきたんですよね。

ドカーンときた。

 

10年以上かけて、素人ながらに、いろいろ神経や心理のことを勉強していきました。

おかげでけっこう、知識はつきました。

でも、治らない。

さてどうだ、そんなに複雑なメカニズムなのか。

パニック障害や自律神経失調症というのは、そんなに難病なのだろうか。

 

思い込みなのではないか。

 

「わたしは、神経がおかしい」と思い込んでいるからじゃないのか。

「わたしは、運動不足で、血流が悪い」と思い込んでいるからじゃないのか。

「わたしはタバコを吸うので、気管支や肺がわるいかもしれない」と思い込んでいるからじゃないのか。

「わたしはデスクワークなので、視神経や脳が疲労しているのかもしれない」と思い込んでいるからじゃないのか。

「わたしはパニック障害だ」と思い込んでいるからじゃないのか。

「わたしは、外出が怖い」と思い込んでいるからじゃないのか。

 

そうじゃないと、おかしい!

なにかをすると、そこからしばらくのあいだ、かなり「効果」があるのです。

そんなにすぐに、効果が出るか?

そしてその効果は、日に日に減少していきます。

そんなにすぐに、効果が切れるか?

 

ぜんぶ、ぼくの思い込みなんじゃないか。

 

ぼくはそもそも、思い込みが強いところがあります。

これは母譲りでもあって、でもこのことは、実は有利に働くことも多いです。

「おれは、○○が得意である」

そう思い込んだら、ほんとうにそれが得意になる。

うそではない。

なにかのきっかけで、それが得意だとか、うまいとか、そう思い込むことができたら、ぼくはほんとうにそのようになる。

基盤部分にわりと素直なところがあるので、わりとコロっと転んで、本気でそう思い込むところがあるのです。

そのかわりに、何かの拍子にそれが「苦手だ」と思ってしまったら、ほんとうにだめになっていく。

うそみたいに、それができなくなる。

ぼくには、そういう傾向がある。

それは、知ってる。

ぼくの長所であり、欠点です。

 

忘れてた。

完全に、忘れてた。

ぼくは、ちょっと言い方はアレかもしれないけど「思いが実現するちから」が、けっこう強いのです。

最近、というかここ10年、ぼくは「わたしは、からだとこころが弱い」と「思い込んでいた」。

これは、事実です。

 

これじゃないのか。

まさにこれ、このことが、ぼくの不具合の「ほんとうの中心」だったかもしれん。

そうじゃないと、何もかもが、説明がつかん。

すべてが、不可解すぎる。

そりゃまあ、もうおっさんなので、具合がわるいところがないわけではありません。

でも「すべては思い込みだった」という切り口から覗き込めば、いままでのすべての反応が、全部重なって、一個の明確な立体になる。

 

「思い込む」ちからは、侮ってはいいけないのです。

https://gigazine.net/news/20180530-mind-over-matter/

運動不足ということについても、「わたしはよく運動をしている」と強く思い込めば、運動不足ではなくなるのだそうです。

ぎゃくに、いくら毎日運動をしていても「わたしにはまだまだ、運動が足りない」と思っていると、運動不足の症状が出るようになり、不健康になっていく。

実際に何分間、どれだけの負荷の運動をしたか、という「事実」よりも、「本人がそう思っている」ことが、非常に大きなファクターになることがある。

 

ぼくはいったい、この10年間、なにをしていたのだろうか。

ネットや本でパニック障害や自律神経失調症について情報を集めていると、なんとなく安心です。

同じような症状を持っているひとを見つけると、なんだか安心する。

でもそんなことで「安心」をしてしまったら「わたしは、その病気である」ということを「確定」させることになってしまうじゃないか!

元気なら、そんなことは調べないんです。

調べるということは、それを考えるということは、「わたしは、それである」という定義を、どんどんどんどん、強化していくことにほかなりません。

ただでさえ思い込みが強いのに、「わたしが病気であることを証明する情報」を集めていって、どうするというのだ!

どうしたいのだ!

なにがしたいのだ!

そんなことをしたら、120%、「その病気」になってしまうのに。

 

わたしに足りないものなど、なにもない。

 

「足るを知る」ということについては、これを謙虚さであるとか、欲の抑制的なことで解釈する向きが多いです。

しかしもしかして、それだけではなくて「そう思い込め」っていうことはないか?

 

わたしは十分に、運動が足りている。

わたしは十分に、栄養が足りている。

わたしは十分に、健康に恵まれている。

わたしは十分に、生命力が足りている。

わたしは十分に、空気が足りている。

わたしは十分に、足りている。

わたしは足りている、

足りている、

足りている、

足りている。

 

そう、思い込め、っていうことはないか?

 

思い込みが強いのなら、これを使わない手はないですね。

なかには、どうやったって「思い込めない」ひとだっているのです。

ぼくは催眠術や自律訓練法が、いっぱつで効くタイプです。

腕が重い、と思ったら、がくーん、と重くなる。

理屈っぽいくせに、異様に素直なところがある。

この天賦の才能を、しっかり使ってみようと思います。

わたしは、病気ではない。

わたしは、健康である。

わたしはもう、じゅうぶんに、いろいろと、足りている。

 

こころがかわれば、からだはかわる。

だったらば、せっかくだ、いいふうに、思い込もう。

もう治ってる、きっとぜんぶ、うまくいく。

 

 

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